偽神父が祭服を脱ぐとき「事件」が動き出す
「なりすまし犯」はふつう、本物を装って金をだましとる――でも、この物語では違いました。司祭になりすました前科者の少年のほうが、聖職者が「本当は果たさなければならない役割」を担おうとしていたからです。21年1月に日本で公開されたヤン・コマサ監督の映画『聖なる犯罪者』は、そんな設定で始まります。
殺人の罪を犯した青年ダニエルは、少年院で出会った神父の影響で神学校に進む希望を抱きます。ですが、前科者にその道は閉ざされていた。仮出所であてがわれた職場の製材所のある村に向かう途中、ダニエルはさっそくドラッグやセックスといった快楽の限りにふける半面、バッグには憧れのローマンカラーを施した司祭服風のシャツを忍ばせていました。
村の教会で無任所の神父と勘違いされたなりゆきで、ダニエルはアルコール中毒の老いた主任神父の臨時代理を頼まれます。名前を聞かれると、トマシュと平然と答えるあたり嘘つき、トマシュ神父にまんまとなりすますのです。
祝福するために列席している信徒に刷毛でぴゅぴゅっと散らすのがふつうの聖水も、彼は両手ですくって会堂の中空にはなってみたり、村の祭りでは若者と一緒にパンキーにダンスしてみたり。村人たちは型破りに戸惑いますが、次第に、ダニエルの無垢さに惹かれていく。
そんな急造の偽神父が向き合うのが1年前、7人が犠牲になった村人同士が起こした痛ましい交通事故です。片方の車に乗り合わせた6人の若者の家族たちは相手方のトラック運転手の亡骸を村の墓地への埋葬はおろか教会での葬儀も認めず、残された妻のことは村八分にしていました。
教会の老司祭は目の前の分断に「時間に委ねるしかない」と熱情に欠けていました。これと反対にダニエルは、追い返され敬遠されても当事者の声に耳を傾け、運転手の埋葬と葬儀をやろうと和解に乗り出します――。
私たちは日常的に怒り、嫉妬し、憎むことをやめられません。人を傷つけてしまい、苦しい時間を過ごすとき側にいてほしい、聞いてほしいと思う時があって、宗教はそういうところに力があると思うのです。だから「癒しと和解」は、神父さんに「本当は果たしてほしい役割」だと思ってきました。でも、現実の教会は、その役割を果たせなくなっているから、失望を感じることもあります(アル中で、政治家にも弱い老神父がその象徴です)。そんな現実を下敷きに描かれたドラマでした。
最後、神父になりすましたダニエルは村人を向いて自らの過去を白状し、そして司祭服を脱ぎます。じつは、そこからさまざまなものが動き出す、そこにコマサ監督のメッセージを感じました。僕ら一人ひとりが教会に寄せている思いが和解や癒しの力の源なんだと、まだ、失われてなんていないんだ、と。
ちょっと『トレイン・スポッティング』的な退廃の色がありますが、主題はくっきりしていると感じます。つっぱっていて、でも、つよく触れたらこわれちゃいそうな純真さがあって、そういう二面性を同居させる人物を演じきったバルトシュ・ビィエニエラさんという俳優は、すごかった。