小説『時をかける彼女』③

第3話「なんでいきなり電話が出てくるんだよ」 

火縄銃はケンジが3月にオーストラリアの留学から帰ってきてすぐに結成した。留学する前までは、ケンジはディープ・パープルのコピーバンドを組んでいた。かたや清水はこの3月までレッド・ツェッペリンのコピーバンドを組んでいた。 
しかしセックス・ピストルズの登場に衝撃を受けていたケンジたちは、それまでのハードロック路線を捨て去り、パンクに転向したのだ。 
練習はこの日でまだ4回目だったが、さすがにセックス・ピストルズの曲はパープルやツェッペリンに比べたらメチャクチャ簡単なので、課題曲の五曲ともすでに完璧に近い出来栄えだ。
「ちょっと聴いてみるか?」
五曲すべて演奏し終えると、清水は録音していたラジカセのテープを巻き戻した。ボーカルの清水は楽器がなくて身軽なので、代わりに録音担当としてラジカセを毎回持ってくる。 
ベースの岩澤はうつむいて「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」のベースラインを小さい音で弾いている。 
ラジカセでざっと聴いてみても悪くなかった。
「EAST WESTの優勝は確実だな、こりゃ」
ドラムの国井が手の平でスティックを回しながら威勢のいいことを言う。 
EAST WESTは楽器メーカーが主催するロックバンドのコンテストで、この夏に行われる川越ブロックの予選会に火縄銃もエントリーするつもりでいた。
「水を差すような話で悪いんだけどさ」
ひと通り盛り上がった後で無口な岩澤が突然口を開いたので、みんなビックリして岩澤の顔を見た。
「俺、もうバンドやれないわ」
岩澤は目を伏せてはいるが、きっぱりとした口調で言った。
「なんだよ、突然」
清水が口を尖らす。
「もうそろそろ受験勉強に本腰入れなきゃまずいしさ。EAST WESTなんて出てらんないよ。だから、今日で辞めるよ。このまま続けてEAST WESTが近づいてきたら、辞めるわけにはいかなくなっちゃうしよ」
「本気かよ」 
ケンジが言うと岩澤は銀縁メガネ越しにこちらをちらっと見て「悪いけど」とだけ言った。 
そういえば岩澤は以前は短い髪をしっかり立ててパンク風にしていたのに、いまは寝ている。やる気のなさが髪に出ているということか。
「あと、申し訳ないんだけどさ、ちょっと用事ができちゃってもう帰らなくちゃならないんだ」
「なんじゃそりゃ」
清水が声を上げた。 
壁にかかった時計を見ると、まだ5時だ。スタジオは6時まで押さえてある。あと1時間、ベースなしでやれというのか。
「悪い」
岩澤は右手を挙げて謝った。
「悪いじゃねえよ。勝手すぎるだろ」
清水がだんだんヒートアップしてくる。
「もう少し付き合えないのか?」 
ケンジが言うと岩澤はいつもの気の弱そうな笑顔で「急に家の用事ができちゃってさ。ほんとゴメン」と頭を下げた。
「じゃあ岩澤、当分ベース弾かねえよな。しばらく俺に貸しといてくれ」 
清水の言い方はほとんど命令口調だった。
「ああいいよ。よかったら売ってやるよ」
「買うかどうかはちょっと考えるわ」 
岩澤はベースを肩から下ろしてアンプに立てかけた。
「あ、今日のスタジオ代、今度でいいか?」
「ああ、いいよいいよ。みんなで立て替えとくわ。またな」
ドラムセット越しに国井が妙に明るい声を出した。 
岩澤はうつむいたまま軽く右手を上げるとスタジオの分厚い二重ドアを開けて出て行った。
「なんなんだ? あいつ」
清水はむっとした顔のままアンプの上に置いていた炭酸が抜けきっているはずのコーラを飲んだ。
「あいつさ、受験勉強が忙しくなるからなんて言ってたけど実は話が反対なんだ」 
見ると国井は神妙な顔をしている。国井と岩澤は同じ飯能の中学の出身で、飯能から電車で1時間かけて川越まで通っている。
「反対ってなんだよ?」
清水は口を尖らせたままだ。
「あいつんち、材木屋だろう?」
「ああ」 
それはケンジも知っている。2年のとき、春の遠足の帰りに飯能の岩澤の家に遊びに行ったことがある。道路側が店舗で、高い屋根の倉庫に材木がたくさん立てかけてあったのを覚えている。
そのときは岩澤の親父に酒を進められて酔っ払い、結局岩澤の家に泊めてもらった。岩澤の親父は自分もたくさん飲んで岩澤の母親に怒鳴られていた。
「商売がうまく行ってなくてヤバいらしいんだわ。なんでも父ちゃんが所沢駅で置き引きにあって金を盗まれたらしくてさ」 
初耳だった。
「なんだそれ? いつの話だよ」
清水も初めて聞く話らしい。
「俺の誕生祝いで家族で『すかいらーく』に行ったときにおふくろが騒いでいたから、5月の14日だよ」
「お前、いい歳こいて、親に誕生会を開いてもらってんのかよ」
清水がすかさず突っ込む。
「俺さ、自分への誕生日プレゼントとしてキャンディーズの写真集を買おうと思って、川越や所沢の本屋を探し回ったんだけどどこにもなくてよ。その日に学校早退してわざわざ新宿まで探しに行ってようやく見つけたんだけど、所沢で乗り換えるときに網棚に忘れちゃったんだ。すぐに問い合わせたんだけど、どこにもないって。それですげえ落ち込んでたから『すかいらーく』に連れてってくれたんだよ」
「なんだそりゃ?」
清水が呆れた顔をする。 
国井は以前からキャンディーズのランちゃんのファンだったが、去年の4月にキャンディーズが解散してからは「ランちゃん命」に拍車がかかり、コツコツお小遣いをためてはキャンディーズグッズを買い漁っている。 
だからキャンディーズの写真集を失くしたというのがショックなのはわかるが、その話ならこの前の火縄銃の練習のときに散々聞かされている。でも、岩澤は前の練習のときに置き引きのことなどなにも言わなかった。
なにかひとことくらい言ってくれればいいものを、岩澤はいつも通り黙ってベースを弾いていた。
「そのとき盗まれたバッグに、会社の運転資金用に結構な金が入ってたらしくてさ。あいつの父ちゃんも間抜けだよ。昼間から会合で酒をたくさん飲んだ後に銀行に寄って大金下ろして、それで夕方、家に帰るときに所沢駅のホームのベンチでウトウトしててやられたんだってさ。だから、あいつも大学進学どころじゃないって話だよ」 
火縄銃のなかでいちばん真面目で勉強もできる岩澤は、明治あたりなら現役で入れるくらいの偏差値だ。偏差値が低いケンジや清水や国井ではなくて、よりにもよって岩澤が大学に行けないなんて理不尽な話だ。
「一度あいつに聞いたんだよ。大丈夫かって」国井はディップローションで立てた髪型に似合わないような悲しい顔をして続ける。「あいつ、大丈夫だからみんなには黙っててくれって」 
ケンジも清水も、岩澤がそんな大変な目にあっているなんてまったく知らなかった。
「まあ、せめて今日のスタジオ代は俺たちのおごりにしようぜ」
清水は岩澤が置いていったベースのストラップを肩にかけた。
「ベースなんか弾けんのかよ」 
国井が言うと清水はポーズをとりながら適当にベースを弾いてみせた。
「まあ、シド・ヴィシャスくらいなら俺だって弾けるだろうよ」
「そりゃそうだ」
国井が笑う。
「シドはベースなんて弾いたことがないままピストルズのベーシストになったんだもんな」
「今度岩澤に譜面をもらわなきゃな」
清水はベーシストをやるつもりらしい。 
岩澤は前もケンジとディープ・パープルのコピーバンドを組んでいた。そのバンドはケンジの留学で解散となり、帰国後ケンジはパンクバンドを結成するために再び岩澤を誘って火縄銃のメンバーに加えたのだ。でも、そもそも岩澤はパンクに関心を持っていたのだろうか。
もっと言うと、パープルにだって岩澤が関心を持っていたのかどうかも定かではない。岩澤の部屋にあったのはアメリカンロックのLPばかりでディープ・パープルはおろかブリティッシュロックのLPなど1枚もなかった。無口な岩澤はあまり本心を言わないヤツだった。 
最後まで本音を言わずにバンドを脱退かよ・・・・。 
なんだか無性に悲しくなってくる。 

ギターのストラップを肩にかけてふとスタジオの窓を見ると葉月の顔があった。窓の外は楽器店の店内だ。ケンジは手を上げて、入ってこいという合図をした。 
葉月が顔を出したことで沈んでいたスタジオのムードは一変した。 
いちばん態度が変わったのは、葉月と初対面の国井だ。その日、葉月はタイトな白いミニスカートを履いていたが、国井はミニスカから伸びた脚を見て顔を赤くしていきなり無口になった。 
国井は背が低くて目が小さいこともあり、はっきり言ってまったく女にモテない。もちろんケンジだってモテると胸を張れるほどではないけれど、コンサート終了後に女の子から握手を求められたこともあるし、短期間だけど恵という彼女がいたこともある。しかし国井はからきしダメだった。 
国井は顔じゅうニキビだらけなのにもコンプレックスを持っている。一度、ケンジが「性欲が強いヤツほどニキビが出るらしいぜ」とからかったら、本気で落ち込んでしまい、なぐさめるのに苦労した。 
岩澤がいなくなったので、清水が急遽ボーカル兼ベーシストになった。清水はケンジからコード進行を聞いてノートにメモり、ルート音だけ弾きながら歌った。 
清水はベースを弾きながら歌うのが難しいのか、それとも葉月が見ているので緊張しているのか、はっきり言ってベースも歌もイマイチだ。国井のリズムもそれに引っ張られて不安定になっている。 
EAST WESTの優勝があっという間に遠のいてしまった。ケンジはギターを弾きながら舌打ちをした。 
葉月は最初イスに座って演奏を聴いていたが、そのうち立ち上がってこの前いじりながら「県外だ」なんて言っていた小さな機械をケンジたちに向けた。清水も国井もケンジも、訳がわからないまま、その機械を向けられる度にニヤニヤした。
「ハーちゃん、なにしてたのよ?」
演奏を終えてすぐに清水が葉月に聞いた。
「ん? ああ、これ?」
葉月は機械を掲げて見せた。
「なにそれ? 電卓?」
言われてみれば確かに最近発売された名刺サイズの電卓に似ている。現物は見たことないが。
葉月はなにも言わずに、ニヤニヤしながら機械をいじって清水に手渡した。 
すぐに機械から「アナーキー・イン・ザ・UK」が流れ出した。ピストルズの演奏ではない。火縄銃の演奏だ。どうやらテープレコーダーらしい。
「なんだこれ?」 
清水が素っ頓狂な声を上げた。テープレコーダーを見つめて驚いている。その驚き方が尋常じゃない。もう少しで目玉がこぼれ落ちそうなほど目を見開いている。 
国井がドラムセットから飛び出てきてのぞきこみ、そのまま口を半開きにして固まってしまった。その間も小さな機械からは「アナーキー・イン・ザ・UK」が流れている。 
ずいぶん小さいテープレコーダーだと思うし、あの薄い機械の中にどうやってカセットテープが入っているのか不思議ではあるけれど、いくらなんでも驚きすぎだ。 
ケンジも清水の後ろに回り込んでのぞきこんだ。そして、清水と国井の驚き方が決して大げさではないことがわかった。
「ウソ!」
ケンジはつい悲鳴のような情けない声を上げてしまった。 
その機械には画面がついていて、なんとそこに演奏中のケンジたちが映っていた。
「ありえねえ・・・・」
清水の声が震えている。 
確かに、こんな小さな機械で録音ばかりか撮影もできて、しかも撮影したカラー映像がこの機械で見られるなんて想像をはるかに超えていた。夢でも見ているみたいだ。
ケンジは中2の春、クイーンの初来日のときに武道館へ行ったときのことを唐突に思い出した。それはケンジにとって初めての外タレのコンサート体験だった。 
野球部に入っていて坊主の中学生だったケンジは、友だち同士で東京に行くということだけでも大イベントだったが、その上、当時大好きだったクイーンが生で見られるとあって天にも昇る気分だった。 
どうしてもコンサートを録音したかったケンジはラジカセを持っていくことにした。しかし、問題はコンサート会場の入り口で録音機器を持ち込んでないかチェックする関所だった。バッグの中身まで厳しくチェックする、飛行機のセキュリティチェック以上に厳しいあの関所を、バッグにすら入らないバカでかいラジカセを持ってどうやって突破すればいいのだろう。 
思案した上、ラジカセに紐をつけて首から下げ、その上からダッフルコートを着込んで行くことにした。バッグの中身は調べられても、服を脱げとは言われないだろう。 
季節は春でダッフルコートを羽織るような陽気ではない。おまけにコンサート会場の武道館は、人だかりができていたこともあってメチャクチャ暑く、汗がだらだら出た。
ケンジは無事に関所を突破し、コンサートを録音することに成功した。しかし、重いラジカセをぶら下げた紐が首に食い込んで、首がちょん切れるかと思うほど痛かった。 
あのときこの機械があったら・・・・と痛切に思う。
「ハーちゃん、なにこれ? どうなってんのよ」
清水の声にケンジは我に返った。 
葉月はニヤニヤするだけで応えない。
「こんなすごい機械、見たことも聞いたこともないわ」
清水の声は相変わらず震えている。
「これ、どこで買ったのよ、ハーちゃん」
「教えない」
葉月はプイッとそっぽを向く。その生意気そうな顔を見ていると、ケンジはだんだん腹が立ってきた。
「お願いだからどこで売ってるのか教えてくれよ」
清水はいまにも土下座しそうな勢いだ。 
清水の家は歯医者で結構小遣いをもらっているみたいだから、早速買うつもりなのだろう。一方、ケンジも国井も自分が買えるようなレベルの代物ではないことが明白なので、ため息をつくしかない。
「遠いとこなんだよね」
「遠いとこってどこ?」
「遠いとこは遠いとこだよ」 
葉月は投げやりに応えて清水から機械を取り返し、目に見えないほどの速さの指さばきで機械を操作した。
ディープ・パープルのギタリスト、リッチー・ブラックモアの速弾き並みの速さだ。どういう風に操作しているのか、見ているケンジにはさっぱりわからなかった。
「ほら」
葉月は画面をケンジたちのほうに向けた。
「うわああ~」
男三人が同時に感嘆の声を上げた。 
信じられなかった。小さい画面のなかで本物のセックス・ピストルズが「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」の演奏を始めたのである。動いているピストルズなんて、4月に清水と新宿で観たビデオコンサート以来だ。
「ありえねえ」
「こんな小さいのに」
「夢みたいな機械じゃん」 
男たちは賞賛の声をあげた。ケンジは心臓がドキドキしてきた。
「いくらするの、それ? 百万円くらい?」清水が懲りずに葉月を問い詰める。
「いくらって・・・・。ほとんどタダっていうか」
「本当ですか?」
いきなり国井が声を上げた。しかも丁寧語だ。考えてみれば葉月が現れてから国井が口をきいたのはこれが初めてだ。
「嘘つくなよ」
ケンジが呆れて言った。
「でも3年縛りとかあるから」
「また、訳のわからないことを。なんだよ、その3年縛りって」
「電話の契約を3年間は結んでなきゃいけないんだ」
「なんでいきなり電話が出てくるんだよ」
「いきなりって・・・・これ電話だし」
「冗談もいい加減にしろ」
ケンジは本格的に腹を立てた。
「ハーちゃん、大人をからかうのもいい加減にしてくださいね。それのどこが電話なんですか? 電話というのはね」
清水はそう言ってスタジオに設置された黒電話を指差す。
「これのことを言うんですよ。ほら、こうやってコードが繋がってないと相手の声が聞こえないんですよ」
「なにそれ? それ電話? 超ウケるんですけど」 
葉月が黒電話を見て笑い出す。もう、わけがわからない。
「じゃあそれで電話してみてくれます?」
国井がまた丁寧語で割り込んできた。
「いや、ちょっとここはケンガイだから」
「埼玉県内だよ」
清水がケンジと同じ反応をする。 
いつまでたってもラチがあかず、ケンジはイライラしてきた。
「おい、まだ三十分以上時間あるぞ。もうちょっと練習するぞ」 
ケンジが大声で言うと、清水と国井は夢から覚めたような顔をしてケンジを見た。


「やっぱ、ベース弾きながら歌うのってきついわ」
「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」を演奏した後、清水が泣き言を言った。
「確かにベースも歌もリズム狂いまくってるしな」
国井が自分のリズムの乱れを棚に上げて容赦ないことを言う。
「俺、ベースに専念してコーラスだけにするわ。ケンジ、お前がボーカルもやれよ」
「無理だって」
「まあ確かにケンジは音痴だしな。じゃあ・・・・」
清水は葉月のほうを見た。
「なに見てんだよ。キモいな」
葉月は警戒心をあらわにした顔をする。
「どう? ハーちゃん。スージー・クワトロになってみない?」
スージー・クワトロというのは、ちょっと違う気がするが。
「なんだよ、そのスージーなんとかってよ」
「スージー・クワトロはロック界のアイドルだよ。ベースを弾きながら歌う姿がカッコいいんだよね。こう、革ジャンのファスナーを下げてさ」
清水は胸のところでファスナーを下げる手つきをして、ニヤニヤしながら葉月の胸のあたりに目を向けた。
「胸の谷間がチラリと見えて・・・・」
「キモいんだよ!」
葉月が大声を出して足元にあったゴミ箱を清水に投げつけた。どうやら「キモい」というのは不快感を表現する方言かなにからしい。
「まあまあ落ち着けよ」
ケンジが割って入った。
「とりあえず今日だけ適当に歌ってみてくれよ。今日だけ。あと三十分だけだからさ」
「そんなこと言われても曲知らないし」
「パンクだからワヤワヤ言ってりゃ大丈夫だよ・・・・じゃあ、『プロブレム』行ってみよう!」
清水が調子づいて言い、葉月が返事をする間もなく国井がカウントを取って演奏が始まった。 
ということで、葉月は渋々マイクの前に立って清水に言われた通りにワヤワヤ歌った。そして、これがなんと大当たりだったのだ。 
葉月の歌声はオーバードライブがかかったような声質でパンクロックにぴったりだった。しかも、音程もしっかりしている。
ケンジたちは大喜びして本人の意思を確認しないまま、葉月を火縄銃の正式メンバーにした。
「じゃあサテンに行ってハーちゃんの歓迎会でもするか」
スタジオを出たところで喫茶店好きの清水が言った。
「悪いけど、今日はこのまま塾に行かなきゃなんねえんだわ」
ケンジはギターケースを背負い、自転車にまたがった。
「あたしも帰るわ」
「なんだよ、ハーちゃんはいいだろ?」 
清水は葉月の腕をつかもうとしたが、それより早く彼女は背を向けて、手を高く振りながら中央通りを歩いて行ってしまった。
「なあケンジ、彼女、どこ住んでんの?」
清水は葉月の背中を見送りながら言う。
「知らない」
ケンジも前に聞いたことがあるが、はぐらかされていた。
「なんだか謎めいてるよな。それにしても、あの機械、どこで売ってるんだろ?」
清水はあの機械に未練タラタラのようだ。
「じゃあ、俺も行くわ」 
ケンジは喫茶店に行くという清水と国井を残して塾に向かった。これから塾に行くなんて面倒臭いけれど、家に早く帰らなくていいからまあいいかとも思う。 
昨夜、晩飯を食べた後に寝転んでテレビを見ていると、滅多に口をきかない親父に「ちょっとは勉強したらどうだ?」といきなり言われてカチンときた。 
親父は銀行に勤めていて晩酌をしながらテレビで巨人戦を見ることだけが楽しみな人間だ。銀行での肩書は支店長代理。ケンジは最近まで、支店長代理というのは支店長の次に偉いのかと思っていた。
でも違った。それを教えてくれたのは、父親が親父より大きな銀行の支店長をやっているという、軽音楽部の嫌なヤツ、小林だ。 
小林はケンジの父親が銀行の支店長代理をやっていることを知ると、「出世街道から外れちゃったねえ」と見下したような目をして笑い、支店長の次に偉いのは副支店長で、支店長代理は出世の見込みのない、年齢が行った行員がもらう肩書だと言った。
「客のトラブル処理をさせるときにちょっと偉そうに見える肩書にしといたほうがスムーズに行くんだってさ。普段は来店した客の案内とか、どうでもいい仕事をしているんだけど」
その話を聞きながら、ケンジはやり場のない怒りで爆発しそうだった。 
真面目だけが取り柄で楽しみはテレビのプロ野球観戦のみ、でも出世も出来ない。自分がそんな親父の血をひいているのかと思うとウンザリした。 
ちゃんと勉強していい大学に入って、なんてことをコツコツやっていたら逆に自分の首を締めるだけだと思う。その先に待っているのは支店長代理的な慎ましい人生だけだ。 
そんなことを思いながらパンクバンドをやる一方で、最低限の勉強だけはきちんとしようとする自分の器の小ささに絶望的な気持ちになる。 
赤になったばかりの交差点に突っ込んで行く。クラクションを鳴らしたクルマをにらみつけるようにして走り去る。
さっき、ケンジたちを残してスタジオを出て行った岩澤の顔が浮かんだ。
あいつはなにを考えているのだろう。今度じっくり話を聞いてみたい気がする。  
そう思いつつ、自分がそんな機会を作る気がないこともわかっていた。

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