小説『時をかける彼女』⑬
第13話「葉月は21世紀の女の子なんだよ」
ドアを開けるスイッチを探して押し、バスを降りた。外は一瞬のうちに身体が凍りついてしまいそうなほど寒かった。相変わらず雪が舞っている。
「ケンジ、すんごくカッコ良かったよ!」
「イエーイ!」
葉月とハイタッチをする。
ほかの乗客もバスから降りてきてスマホを耳に当てて誰かと話している。スマホが電話だといつか葉月が言っていたが、それは嘘ではなかったらしい。
「葉月!」
葉月を呼ぶ女性の声がした。振り返ると恵が立っていた。
恵はサングラスをかけているケンジを一瞬いぶかしげに見たが、すぐに視線を葉月のほうに戻した。
「なんで葉月がここにいるのよ」
声がとがっている。
「だってお母さん、バスの事故で死んじゃうから助けに来たんだよ」
「あなた、タイムワープの能力のこと・・・・」
恵は絶句した。
「おばあちゃんから聞いたよ」
「あれほど言わないでって頼んでおいたのに・・・・」
「もしかしてこの子、恵の娘さん?」
小林が寄って来た。
「お母さんに似てすんごく可愛いね」
その目つきがあまりに気持ち悪く、ついケンジは「スケベオヤジの小林なんか用はねえよ」と口走った。
「なんだと?」
小林が顔色を変えてケンジに近づいて来た。
「なんだテメエは。このクソガキ!」
とても市会議員とは思えない口調だ。その暴言にケンジもかっとなる。
「卑怯者のお前にクソガキ呼ばわりされる筋合いはないわ。恵をだまして二人きりで温泉旅行を楽しもうとしてたんだってな。不良に金払って気に入った広栄女子高の女に因縁つけさせてよ。で、自分がさっそうと助けに入るなんてくだらないことをやっていたお前らしいわ。ホント、死ぬまで卑怯なヤツめ」
「なんだあ? なんでお前が知ってんだよ」
小林は顔を真っ赤にしてつかみかかってきた。
「そもそも離婚する気なんてないんだろ? 家族と仲良く飛んでる寿司屋に行ってるらしいじゃねえか」
「なんだよ、その飛んでる寿司屋ってのは」
「飛んでる寿司屋じゃなくて回転寿司だよ」
葉月が小声で訂正する。
「飛ぶ寿司だって回る寿司だってどっちだっていいわ。こそこそ所沢から出発しやがって」
「黙れ、クソガキ」
高校生にしては小柄なケンジは体躯のいい大人の小林の敵ではなかった。思いきり突き飛ばされて雪が積もる道路に倒れ込んだ。
「ケンジ!」
葉月が声を上げた。そしてすぐにしまったという顔をして自分の口を手でふさいだ。
「ケンジ?」
恵はキョトンとした顔をして起き上がったケンジを見た。そしてその顔がみるみる引きつった。
気がつけば視界がクリアになっていた。突き飛ばされたはずみでサングラスが外れたらしい。
「あれ、もしかしてこのガキも恵の知り合い?」
小林が恵にへつらった声を出す。
「ケンジ・・・・ほんとにケンジなの?」
恵の声は震えていた。
「ああ」
ケンジは恵から目をそらして服についた雪を払った。
「なんで・・・・なんでケンジがここにいるのよ」
「一緒に助けに来てもらったんだよ」
隣で葉月が大きな声を出した。
「葉月、あなたケンジのこと・・・・」
「ようやく見つけたんだ。この人、あたしのお父さんなんでしょ?」
「ケンジ、いま何歳なの?」
恵は葉月の問いかけを無視してケンジを見た。
「十八、高3だよ」
「そうなんだ・・・・」
恵はつぶやくように言って目を伏せた。
「葉月から全部聞いたよ。恵、なんで俺に黙って未来なんかに行っちゃったんだよ。子どもができたんなら言ってくれれば・・・・」
「だってケンジ、連絡が取れなかったじゃん」
恵の顔がくしゃくしゃになり、突然、女子高生の頃の恵に戻ったかのような口調になった。
「オーストラリアの住所に何度も手紙を送ったんだよ。でも全部、あて先不明で返ってきちゃったんだよ」
「ごめん、ホームステイ先が変わっちゃってさ」
「だったらすぐに連絡くれればいいじゃん。それなのに連絡くれなかったじゃん」
「それは・・・・ホントごめん」
謝るしかなかった。
「ケンジがオーストラリアに行ってすぐに妊娠がわかったんだよ。でもケンジは全然連絡つかないし、お母さんもお父さんもおばあちゃんもおじいちゃんも、みんなみんな子どもを産むには若すぎるっていうし。だけど・・・・だけど私、産みたかったんだよ。だから、『じゃあ、何歳になったら産んでいいの?』って聞いたんだ。そしたら『せめて二十五歳くらいになったら』って。それなら8年後の1986年に行けば産めると思ったんだ。でも、タイムワープするの、その時が初めてで、混乱してたから間違って1998年に行っちゃって・・・・」
そこまで言うと恵は鼻をすすってハンカチを目に当てた。
「着いたのは夜だった。私、自分がそんな先の時代に行っちゃったなんてまったく気づかないで、着いてからひと晩、ずっと川越の街を歩き回ってた。ちょうどクリスマスイブの夜で街がすっごくきれいだった。自分の間違いに気づいたときには、もうワープしてから8時間以上たっていたんだよ」
恵は子どもみたいに声を上げて泣き出した。
葉月は走り寄って恵の肩を抱いた。並ぶと葉月のほうが少しだけ背が高い。その横ではデブオヤジの小林がぽかんとした顔をして突っ立っている。
「早まり過ぎだよ」
ケンジがつぶやく。
「衝動的にワープしちゃったんだよ。だって私、見ちゃったから・・・・」
顔を上げた恵の頬に涙が伝わり、そこに大粒の雪が吸い寄せられるようにくっついた。
「見たってなにを?」
「あの年の学園祭の頃、ケンジ、私に内緒でオーストラリアから日本に帰って来たでしょう?」
「帰って来てないよ」
なにを言い出すのか見当もつかない。
「いまさらとぼけなくてもいいんだよ」
恵は静かに笑った。
「とぼけてないって」
「学園祭の前の夜、軽音楽部のみんなと晩ご飯を食べに行って部室に戻ってきたとき、見ちゃったんだよ。ケンジ、オーストラリアから戻って来たばかりみたいで、涼しいのにTシャツ一枚だった」
ケンジと葉月は顔を見合わせた。
「プールのそばのベンチで女の子と一緒にいた。私、びっくりして身体が動かなかった。そしたら・・・・そしたらキスをしたんだ。私、もうなにがなんだかわからなくて、なんとか頑張って学園祭のライブはこなしたんだけど、耐えられなくてワープしちゃったんだ」
「それ、あたしじゃん!」
恵の肩を抱いていた葉月が大声を上げて恵から飛び退いた。
「なんのこと?」
恵はポカンとした顔をした。
ケンジが事情を説明すると恵は激しくショックを受けたようだった。
しかしケンジは訳がわからなかった。恵が消えたきっかけを作ったのは、恵の行方を葉月と探しに行ったこの前のタイムワープだというのか。
「時間の流れがおかしくないか? いや、そもそもタイムワープ自体、時間の流れを無視してるけどさ。それにしても話が逆な気がするんだけどな」
ケンジは誰に言うとでもなくつぶやいた。
「ふたりを目撃して衝動的にタイムワープしたのは事実だけど・・・・」
恵が前髪をかき上げるようにしながら口を開いた。
「でも、それがなくても私はタイムワープをするつもりだった。葉月を産むためにはそうするしかないと思っていたから。多分、タイムワープする日が2、3日早まっただけなんだと思う」
救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。
「葉月、もう10時すぎだけど時間は大丈夫なの?」恵が聞いた。
「こっちに来たのか昨日の夜9時だから・・・・もう3時間切ってるじゃん!」
1時までに鳥居を潜らないと二十世紀に戻れなくなってしまう。
「クルマをつかまえて帰ろう」
葉月がケンジの腕を引っ張る。
「私も川越に帰る」
恵もついてくる。
「俺も!」
道路を渡るケンジたちを小林が追いかけて来た。
「ついてくんな! Aコードも弾けないくせにギタリストぶってるんじゃねえ」
ケンジが怒鳴ると小林はハッとした顔をして、まじまじとケンジの顔を見た。
「お前、そういや旭高にいたケンジに似てるな。ケンジの息子か?」
ケンジは小林を無視して走ってくるクルマに手を挙げた。しかし、どのクルマの運転手も道路の反対側に停められたバスに気を取られてケンジたちに気がつかない。
やがて救急車、パトカーも到着して、あたりは騒然としてきた。
「ここじゃ無理だ。場所を移動しよう」
ケンジたちは道路を下り方向に歩いて行った。ついさっき必死の思いで曲がった急カーブを通り過ぎてしばらく行ったところで、後ろから走ってきた赤いクルマに手をあげた。
クルマは目の前で止まった。乗っていたのは二十代後半くらいのカップルで、幸いにも後部座席には誰もいない。聞くと、東松山まで帰るのでそこまでなら乗せて行ってもいいと言う。
東松山は川越の手前で川越までまだ20キロ近くある。それでもせっかく止まってくれたクルマを逃す気にならなかったので乗せてもらうことにした。
クルマの屋根の上にスキー板が載っているのかと思ったが、よく見るとものすごく太くて短い板だ。ケンジはその正体を知りたくてウズウズしたが、バカにされそうな気がして質問するのを我慢した。
後部座席にケンジを真ん中にして座る。クルマに付いたデジタルの時計を見ると10時半だ。タイムリミットまでジャスト2時間半。ここまで来るのにかかった時間を考えると、このまま川越に直行してももう無理かもしれない。東松山で降ろされたら間違いなくアウトだ。
ケンジは気持ちが焦りながらも、一方で間に合わなければいいのに、と思う自分もいた。間に合わずにこのまま二十一世紀で恵と葉月と一緒に暮らす。もしかしたら二十世紀で暮らすよりずっと楽しいかもしれない。この時代のどこかに小林みたいに醜いオヤジになった自分が住んでいるだろうが、そんなヤツは放っておけばいい。
しかし恵はどうだろう。自分の娘と同い年のケンジがいて、果たして恵は幸せだろうか。
「いっそのこと、こっちで暮らす?」
ケンジの気持ちの逡巡を見透かしたかのように葉月が言う。
「こっちにインベーダーゲームがあればな」
わざと軽口で返す。
「マジ? あきれた。インベーダーゲームごときで決めるわけ?」
「ほかの時代で生きていくのって、すごくしんどいんだよ」
恵が静かに言った。
きっと、二十一世紀でつらい思いをたくさんしてきたに違いない。ケンジは思わず恵の手を握った。その温かくて小さな手は、ケンジの手が記憶している高校生の恵の手とまったく変わっていなかった。
「インベーダーゲームならあるよ」
運転していた男が振り返って、話に割り込んできた。
「昔のゲームばかり集めたサイトでやったことあるわ。まあ、超かったるいゲームだけどな」
ケンジはなにも言わなかった。二十世紀のことをバカにされるのにはもう慣れた。
「3人はどういう関係?」
男が探りを入れてくる。
「どういう関係に見える?」
葉月がはしゃいだ声で質問を返す。
「絶対当たらないと思うけど」
「うーん」
ルームミラー越しに男と目が合う。
助手席の女が振り返ってしばらくケンジたちを眺めてから言った。
「大学のサークル仲間とそのサークルのOGとか・・・・」
「実はなんと・・・・」
調子に乗って話そうとする葉月の脇腹を思い切り突っついた。
葉月と前席のカップルは音楽の話で盛り上がり始めた。知らないと言う2人に、葉月はセックス・ピストルズの素晴らしさをとうとうと語っている。
「なあ、一緒に帰らないか」
恵に小声でささやく。
「私はもう戻れないの。もうタイムワープする能力がないんだよ」
恵は窓の外を見たまま言う。
「葉月と一緒なら戻れるだろう?」
ケンジが言うと、恵はケンジに振り向いて首を横に振った。
「そういう問題じゃないの。1998年のクリスマスの朝、私、決めたんだ。自分で選んだ時代なんだからこの時代で生きていこうって。生きる時代なんて誰も選べないのに、私は自分で選んだんだよ。だから私はこの時代で生きていかなければならないし、この時代で葉月を育てる義務があるの。葉月は二十一世紀の女の子なんだよ」
恵はそう言うとかすかに微笑んだ。
「人生はやり直しはきかないんだ。まだ若いケンジ君も、そのことだけは覚えておいて」
そう言われてしまうと返す言葉がなかった。
隣では葉月がおしゃべりを続けている。
「実はあたしのお父さん、高校時代からタバコたくさん吸っててタバコの吸いすぎで肺がんになっちゃってさ」
「なんだよ、話が超飛ぶな」
運転している男があきれた声を上げる。
「まあ、聞いてよ」
「いまどき珍しいヘビースモーカーってわけか」
「で、さっき危篤だって連絡が入ったの。だから急いでるの。悪いけど川越まで飛ばしてくれないかな」
「そうなんだ・・・・」
男の口調が変わった。 葉月の適当な嘘を信じたらしい。男はリアクションに困った顔をしている。
「行ってあげようよ、川越まで」
隣の女が言う。
「じゃあ川越まで飛ばすか!」
「ありがとー!」
葉月が歓声を上げる。とても父親が危篤だという人間のノリではない。
しばらくして関越にのるとクルマはスピードを上げた。
右手のあたりがもぞもぞしたかと思うと葉月が手を握ってきた。ケンジは左手を恵と、右手を葉月と手をつなぐ格好になった。
親子3人で手をつなぐなんてよくやることだろう。でもケンジは複雑な気持ちだった。指を絡ませた葉月の手の握り方は、父親に対する握り方ではなかったからだ。
川越公園の入口に着いたのは1時3分前だった。病院ではなく公園の前で降りたケンジたちをカップルはいぶかしげに見ていたが、そんなことより昼を過ぎて空腹に耐えられなかったらしく、挨拶もそこそこに走り去って行った。
「じゃあケンジ、元気でね」
恵が軽く手を挙げる。
「ちょっと待てよ。やっぱ恵も来いよ!」
ケンジは恵の腕をつかんだ。
「痛いって」
恵は大げさに顔をしかめて腕を振り払った。
「無理だって言ってるでしょ? だいたい私、年下って興味ないんだ。あきらめて」
「ケンジやめなよ、嫌がってるじゃん。お母さんにひどいことしないでよ」
「うるせえな。関係ないヤツは黙ってろよ」
ケンジはカチンとして言った。
「ひどい」
葉月は一瞬ひどく悲しそうな顔をしたが、すぐに気を取り直して「また話し合う機会はあるよ。とにかく行くよ」と静かに言った。
後ろ髪引かれる思いで恵を残して公園を走った。真冬の公園は人影はなく寒々としている。
葉月に腕を引っ張られるようにして鳥居を潜った。
途端に世界はブラックアウトしてケンジたちは風に舞った。
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