小説『時をかける彼女』⑫
第12話 ケンジは思わず葉月を強く抱きしめた
スキーバスはすぐに郊外に出た。関越にのるのかもしれない。ケンジの家にはクルマがないので高速道路のことは詳しくないが、練馬から川越の先の東松山まで通っている高速道路、関越自動車道の存在くらいは知っている。
いちばん前の席なので前方が良く見える。関越のインターが見えてきた。
料金所が近づいてくる。人の気配がない。クルマを通せんぼするかのようにバーが下がっている。しかし運転手はバーが見えないのか、スピードを落とすことなく突っ込んでいく。
「わー、ぶつかるぶつかる」
思わず大声を上げた。
しかし、クルマがバーに衝突しそうになる直前、バーがスッと上がった。運転手が白い目でこちらを見る。
「なんだよケンジ、恥ずかしいから大声出すなよな」
「だってあの運転手、料金所止まんねえし」
「ケンジの時代は知らないけどさ、それが普通だって」
ケンジはこのバスのなかでひとりだけ田舎者扱いされているような気がして不愉快になった。
「でも、どうすんだよ、これから」
「しばらくは様子見でしょ? 事故現場はもっとずっと先だから。高速降りてからが要注意だよ」
バスはあっという間に東松山を通り過ぎた。案内板を見ると驚くべきことに関越は新潟まで繋がっているらしい。
高速にのってからはすることもないので、周りの景色や見たこともない形のクルマを眺めていたが、いつの間にか眠ってしまったらしい。
葉月に揺り起こされた。バスは停まっている。
「おかしいんだよ」葉月が声を潜めて言う。
「どうした? ここどこだ?」
「上里だよ。サービスエリア」
「上里ってどこだ?」
「埼玉県の端っこだよ。もうすぐ群馬県」
「で、なにがおかしいんだよ」
「お母さんが乗ってないんだよ」
「なんだよそりゃ」
「バスを間違ったみたい」
ケンジは立ち上がってバスの奥を振り返った。トイレに行っている客が多いのか、乗っているのは十人足らずだった。子連れの家族もいる。
「でも、集合場所にいたのはこのバスだけだったじゃないか」
ケンジは再びシートに腰を下ろした。
「集合場所が川越じゃなかったのかも。お母さん、スキーバスが川越発だとは言ってなかったし」
「小林はいまどこに住んでるんだ?」
「川越市内の郭町だよ」
実家にそのまま住んでいるらしい。
「ふたりとも川越だったら川越発のバスに乗るだろう、普通」
「後ろ暗い気持ちがあるからわかんないよ。あいつ、お母さんと不倫関係になることを狙ってるしさ。市会議員で川越じゃあ結構顔が知られてるから、あえて川越発を避けたのかも」
「フリン関係ってなんだよ?」
「どうしよう、もうダメかも」
葉月はケンジの質問には応えずに泣き顔になった。
ケンジはどうしたらいいかわからずに窓の外を見た。周りはみんなスキーバスのようだった。
「もしかしたらこのサービスエリアに恵が乗っているバスが停まっているかもしれないぞ」
「そんな都合がいい話があるかよ」
「わかんないじゃん。とにかく探してみよう」
外に出て、一台ずつバスのフロントガラスに表示されたプレートを見ていく。
「船橋西南高校スキーツアー」「新宿→苗場スキーツアー」・・・・。
「恵は万座に行ったんだよな?」
「わかんない」
「なんだよ、それ?」ケンジは呆れて葉月の顔を見た。
「群馬にスキー旅行に行くとしか聞いてないんだよ」
「苗場は群馬か?」
「ちょっと待って」葉月はスマホをいじり出す。
「新潟だ」
スマホはそんなことまで教えてくれるらしい。
「じゃあこれはどうだ?」
ケンジが見つけたのは「埼玉旅行社所沢支店主催 スキーと名湯を楽しむ草津の旅」というプレートだった。
「当たり! 群馬だ」
葉月はスマホから顔を上げると「ちょっと見てくるよ」と言ってバスのステップを登っていった。しかし、すぐに後ずさりして戻ってきた。
「いたよ・・・・」
声が上ずっている。
「小林と並んで座ってた」
「間違いないか?」
「うん」
「ばれなかったか?」
「大丈夫。なんだかもめてた。なんで知り合いが誰も来ないのかって、お母さん、小林を責めてた」
「また卑怯な手を使いやがったな、あいつ」
「そうみたい。みんないるからってウソついて二人で温泉に行くつもりだったんだ」
以前、小林は気に入った広栄女子高校の女の子に取り入るために不良グループに金を渡して彼女に因縁をつけさせ、偶然を装って通りかかった小林が毅然とした態度で不良を追っ払うなんていう、昔のマンガみたいな芝居をして、その女の子をまんまと彼女にしたことがある。心底、しょうもないヤツなのだ。
「あの野郎」
ケンジはかっとなってステップに足をかけた。
「ちょっとちょっと」
葉月はケンジのジャンパーを引っ張った。
「いまケンジが出て行ったら事故が防げなくなるじゃん」
「事故なんかどうでもいいよ。放っておいたら小林に何されるかわからないぞ」
「どうでもよくないって」
「じゃあどうするんだよ」
「このバスに潜り込もう」
ケンジは乗車口から運転席に座っている男を見上げた。貧相な顔をした四十代くらいの男だ。
「あんたは数時間後に心臓発作を起こして、そのせいでバスが崖から転落して乗客がたくさん死んじゃうんだよ」
ケンジはそう言って男をバスから引きずり降ろしたかった。そうすれば事故は防げるのだ。しかし、そんなことをしたって騒ぎになるだけで、いずれにせよ運転手は乗務に戻るだろう。
運転手は葉月が持っているのと同じようなスマホをいじっている。バスに乗り込むならいまがチャンスだ。ケンジは再びサングラスをかけてステップを上がった。葉月が隠れるようについてくる。運転手はスマホに目を落としたまま、こちらを見ようともしなかった。
前から三番目の席に懐かしい顔があった。二十一世紀の恵だ。三十六歳になっても恵は十七歳のときと変わらず可愛かった。きちんとブローされた髪を肩まで伸ばし、サーモンピンクのセーターを着ている。ケンジは涙が出そうになった。
恵の隣には見たこともないオヤジが座っていた。不健康に太り、顔は脂でも塗ったかのようにテカテカ光っている。後頭部がハゲていた。でも本人はハゲているという現実を認める気はないのかもしれない。ハゲを少ない髪で五線譜のように覆っていた。
デブオヤジなのに若々しい格好をしているところが、ケンジの神経を逆なでした。ピッチリした白いセーターは出っ張ったおなかの肉の圧力でいまにも破れそうだ。
葉月から聞いてなければ、このオヤジが未来の小林だなんて到底気がつかなかっただろう。言われてみれば目元あたりに高校生の頃の面影が残っているが、あとはすべてが変わっていた。
無残だ、とケンジは思った。
小林はイヤなヤツだが見た目はカッコいいのだ。それなのに・・・・。大人になり、そして年をとるということはこんなにも醜悪なことなのか。ケンジは自分の未来を見せられているようで気分が悪くなった。
ノー・フューチャー・フォー・ユー
オヤジになったジョン・ロットンの歌声が頭の中で響き渡った。
席はいちばん後ろしか空いてなかった。ケンジは乗客に見とがめられるかと心配だったが、なにが楽しいのか誰も彼もスマホに目を落としていてケンジたちに目を止めることはなかった。
トイレに行っていたらしき人たちが戻り、5分ほどしてバスは出発した。関越自動車道をしばらく走った後、渋川伊香保というインターで一般道に降りた。
このあたりまで来ると、いまが二十世紀だと言われても「ああそうか」と思ってしまうくらい未来度の低いのどかな風景が広がっている。
目に映る風景が退屈になってくると、再び猛烈な睡魔に襲われた。恵の命を助けるという重要な任務がある前夜に、カラオケボックスなんていう魅惑的なところにケンジを連れて行った葉月が恨めしい。
しばらくしてまた葉月に揺り起こされた。目を開けると外は完全に雪国になっていた。
雪が積もった山が両側から道路に迫り、その道路も真っ白だ。空は鉛色に曇り、粒の大きな雪が舞っている。さっきまで晴れていたのが嘘みたいだ。
「そろそろだよ、きっと」
葉月は背を伸ばして運転席のほうを見る。
「遠くて運転手の様子が分かりづらいな」
車内はみんな寝ているのか話し声もせずに静かだ。道路が大きく左にカーブしたかと思うとトンネルに入った。しばらく暗闇のなかを走ってトンネルを抜けると、左側が崖になった。
「このあたりだよ、きっと」
ケンジは窓際に座る葉月の前に顔を突き出して窓の外を見た。
崖のはるか下を川が流れている。河原まで落差五十メートルはあるだろうか。雪が積もった巨大な石を縫うようにして、いかにも冷たそうな川の水が白い波を立てながら勢いよく流れている。
崖から転落するという事故がいきなり現実味を帯びてきた。下手をしたらケンジたちも転落事故に巻き込まれてしまう。行き当たりばったりでここまで来てしまったことを猛烈に後悔した。
いますぐ恵に声をかけて、葉月と3人でバスを降りてしまいたかった。正直、ほかの乗客のことなど気にしている余裕はない。もちろん小林なんかシカトして死なせてしまっても、罪悪感など露とも覚えないだろう。
バスの車体が左右に揺れた。葉月と顔を見合わせ、中腰になって運転手の様子を伺った。運転手の頭が下を向いている。
「やばいぞ葉月、行くぞ」
ケンジは立ち上がって通路を急いだ。すぐにスピーカーのスイッチが入った音がした。「お客さん、走行中は危ないから立ち歩かないでください」
見るとルームミラーに運転手の鋭い目が映っている。単に脇見運転をしていただけらしい。
「すみません」
頭を下げてUターンする。
「お客さん、所沢から乗ってた?」
まずい、バレたか。ケンジは振り返らずに「もちろん乗ってましたよ」と応えた。
「おかしいな。なんだか人数が多い気がするしな。草津に到着したら確認させてもらいますわ」
その草津にたどり着けないから、わざわざ二十世紀くんだりからやって来たのだ。
しばらくは何事もなかった。もしかしたらこのバスにケンジたちが乗り込んだことで歴史が改変され、運転手の心臓発作もなくなったんじゃないか。
ケンジと葉月がそんな希望的観測を話し合っていると、突然車体がガクンと揺れてスピードが急に上がった。中腰になって様子を見ると、運転手がハンドルに倒れこんでいる。
「来たぞ、葉月!」ケンジは立ち上がって通路を走った。
運転席の脇まで行って運転手に声をかけて身体を揺すった。しかし完全に意識を失くしているようだった。意識を失ったときにハンドルを切らなかったのは不幸中の幸いだった。
葉月にハンドルを抑えてもらい、覆いかぶさった身体を起してシートにもたれかけさせる。
スピードメーターを見た。なんとデジタル表示だ。しかしいまは、そんなことに感心している場合じゃない。120キロも出ている。
「前を見てハンドルを調整しててくれ」
葉月に声をかけてうずくまり、運転手の足元を見た。心臓発作を起こしたときに両脚が硬直したように伸びきったらしく、右足がアクセルを深く踏み込んでいる。
両手で右足の脛をつかんでアクセルから放そうとするが、意識がないはずなのにビクともしない。
「ケンジ! やばいやばいやばいやばい」
葉月が悲鳴を上げた。
前を見ると、ちょうど「右 急カーブ注意」の標識を通り過ぎたところだった。300メートルくらい先で道路が右に急カーブしているのが見える。ガードレールの先は崖に違いない。間違いなくあそこが事故現場だ。このスピードのままでは曲がり切れるはずがない。
親子3人で死ねるのならそれもいいかと思い込もうとしたが、やっぱり無理だ。思い残すことが多すぎる。小林が紛れ込んでいるし。
もう一度、両手に思いきり力を入れて右足を手前に引くが、やはりビクともしなかった。
「ごめん!」
ケンジはそう言って立ち上がり、すねを思いきり蹴っ飛ばした。
右足がアクセルから外れた。意識があればメチャメチャ痛いはずだが、運転手は無反応だ。
スピードが緩む。しかし、アクセルをオフにしたせいでタイヤのグリップ力が弱まり、バスが横滑りした。
乗客から悲鳴が上がる。
バスの後部が左側のガードレールにぶつかりそうになり、あわててハンドルを切ってカウンターを当てる。ずっと愛読しているマンガ『サーキットの狼』が役に立つ日が来るとは夢にも思わなかった。
しかし、危機はまだ眼前にある。急カーブは100メートル先まで迫っている。ケンジは運転手の膝の上にのり、右足でゆっくりブレーキを踏んだ。フルブレーキングすると間違いなくスピンする。しかしあまり悠長なことをしているとガードレールに突っこんでしまう。 運転したことがないケンジにはその塩梅はよく分からないが、イチかバチか勘に頼るしかない。
バスはゆっくり減速していく。急カーブの手前でスピードは70キロまで落ちていた。
ケンジはハンドルを右に切った。再びテールが流れ出したのでカウンターを当てた。リヤがガードレールにぶつかって大きな音をたてた。
また乗客の叫び声がした。
バスは横滑りしたままカーブを曲がり切り、ケンジはカーブの先にあった路側帯にバスを止めた。
思わず深いため息が出る。
車内で拍手が起こった。
「救急車、救急車」という声もする。
「ケンジ!」
運転手の膝にのったケンジに葉月が抱きついてきた。
ケンジは自分の身体がガタガタ震えていることに気がついた。汗をびっしょりかいている。正直、気が小さいのだ。
ケンジは思わず葉月を強く抱きしめた。
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