小説『時をかける彼女』⑤

第5話「つくづくめんどくせえ時代だな」 

夏休みになった。高校最後の夏休みだ。 
旭高校の真面目な3年生は都内の大手予備校の夏期集中講座に通い、忙しい毎日を過ごす。ケンジは、週に1回の火縄銃の練習、週に2回のスーパーでのバイト、週に3回の地元の塾通い、というのがスケジュールのすべてで大して忙しくはない。 
そして空いている時間は葉月と過ごした。葉月は未来から来たことをケンジに知られたことで隠し事がなくなったせいか、以前より気を許した態度をとるようになった。 
清水と国井にはいままで通り「同時代の人間」を装っていたが、二人きりになると「昔の日本をもっと見たい」と言ってケンジをあちこち連れまわした。 
そしてなにを見ても「ヤバイヤバイ」「チョー古臭い」と言って喜んだ。ケンジは自分がナウいと思っているものまで「昔っぽい」と言われるとかなり複雑な気持ちになった。
夏休みに入って最初の日曜日は代々木で模試を受けることになっていた。学校にほぼ強制的に受けさせられるテストだ。葉月のそのことを言うと、「えーっ? 東京、超行きたいんですけど」と言ってきかないので連れて行くことにした。 
その日の朝、川越駅で待ち合わせた。夏休みに入ってからしばらく涼しい日が続いていたが、この日は本格的な夏の到来を感じさせる暑さだった。まだ朝の8時前だというのに日向にいるとじっとしているだけで汗が流れてきた。 
しかし、葉月は約束の8時を過ぎても現れない。このままじゃテストに遅れてしまうので、改札の横にある伝言板に伝言を残して先に行くことにした。

〈葉月へ  時間がないので先に行く。もし後から来るんだったら1時半に原宿駅待ち合わせで。ケンジ〉

先日、この時代のお金を念のために少し渡しておいたので、1人でもなんとか来られるだろう。
「なにやってんの?」 
伝言を書き終わったちょうどそのとき、葉月に声をかけられた。
「なにやってんのじゃねーよ。お前が来ないから、伝言残して先に行こうとしてたんだよ」
「なにこれ? 黒板にメッセージ書くんだ? 超ウケるんですけど」
「とにかく行くぞ」 
ケンジは伝言板を見てクスクス笑っている葉月の手を引っ張って切符売り場に行き、池袋までの切符を二枚買った。
「すごい、これが切符なんだ」
葉月に切符を渡すと嬉しそうに眺めている。
「切符くらいでいちいち感動するなよ。急ぐぞ」 
歩き出した途端、後ろからシャツを引っ張られた。
「なんだよ?」
「なんで改札に人がいるんだよ?」
「改札なんだから人がいるのは当たり前だろ?」
「じゃあ、この切符はどうすんだよ?」
「改札の人間に渡すんだよ」
だんだん説明するのが面倒くさくなってくる。 
葉月は改札にいる駅員が手のひらでくるくる回しているハサミを怖いものでも見るような目つきで見ていたが、ケンジにならってこわごわと切符を渡した。駅員はすぐさまパチンとハサミを入れて葉月に返す。 
しかし、改札を抜けるだけでもひと苦労だ。
「なあ、お前ってホントに未来から来たのかよ? 電車もなにもない江戸時代とかから来たんじゃないのか?」
「ふざけんな! 昔のやり方がとろ過ぎてわかんないんだよ!」
葉月は頬を膨らませて怒る。 
やって来た電車は残念ながら冷房車じゃなかった。天井で扇風機が回っているが、車内のよどんだ空気をかき回しているだけでまったく涼しくない。 
案の定、葉月は「なにこれ? 超暑いし」と文句を言った。
「そりゃあ、温度が一年中一定に保たれた部屋のなかで住んでいる二十一世紀の方には不快だろうけどさ、あいにくいまは二十世紀なもんで我慢してもらうしかないよ」
ケンジは窓を全開にしながら言い返す。
「メッセージは黒板に書くし電車は暑いし、ケンジ、よくこんな不便な時代に住んでいられるよな」
葉月は畳んだハンカチを団扇のように振りながら憎まれ口を叩く。
「しょうがねえだろ? 生まれる時代なんて選べないんだからよ」 
これ以上話していると本格的なケンカになりそうなので、ケンジは窓の外に目をやった。
田んぼに立ったカカシにカラスがとまっているのが目に入った。
〈もう池袋まで行く必要はありません〉
去年川越にできた大型書店の野立て看板が通り過ぎて行く。
しばらくすると右肩が重くなった。見ると葉月が頭をケンジの肩にのせている。
寝ているようだった。タイムワープで疲れたのかもしれない。それに、やはり二十一世紀の人間には二十世紀は疲れることが多いのだろう。 
葉月の髪が窓から吹き込む風に揺れている。無防備な寝顔は驚くほど子どもっぽい。生意気そうな寝顔が可愛らしかった。
しばらくすると葉月は身体をもぞもぞさせて自分の腕をケンジの腕に絡めてきた。 
その日は二人で東京見物をしたが、葉月には東京はそれほど面白くなかったらしい。
模試の後、葉月の希望で原宿に行くと、歩行者天国の路上で竹の子族が踊っていた。ケンジは竹の子族を見たのがそのとき初めてで、「これがいまいちばんナウい人たちか」と素直に感動したけれど、葉月は「チョーダサいんですけど」と大笑いした。 
周りにいた見物客にすごい目でにらまれ、そのままいたら袋叩きになりそうだったので、葉月の手を引いてあわてて逃げ出し、すぐに川越に帰った。

「あのさ、例えばの話だけど、俺も一緒にワープすることって出来ないのかな?」
「出来なくはないけど、その分2倍疲れるらしいんだよね。あたしはまだやったことないけど」
「そうか」
ケンジは皿に残ったそばを箸でかき集めて口に持って行った。 
その日も焼きそば屋で葉月と昼ご飯を食べていた。この時間なら焼きそば屋は空いている。混むのは公園の先にある市営プールが終わる夕方だ。
「なに? どこか行きたいのか?」
「まあ、ちょっとな」 
上目づかいにケンジを見る葉月がまたちょっと大人っぽくなっている。
「そんなに遠い時代じゃないんならいいよ。近めの未来とか過去なら大して疲れないから」
「そういうもんなんだ?」
「そういうもん。結構わかりやすいんだ。で、何年なの?」
「1979年」
「今年じゃん。今年のいつよ?」
「5月14日」
「それなら楽勝だよ。いま行ってもいいよ」
「じゃあ、善は急げということで」
ケンジはコップの水を飲み干して立ち上がる。
「善は急げだって・・・・年寄りみたい」
葉月も笑いながら立ち上がる。
「ああ、どうせ俺は昭和のじいさんだよ」 
ふたりでくだらない話をしながら鳥居のところまで来た。しかしケンジは内心すごく緊張していた。なにしろ初めてのタイムワープだ。緊張しないほうがおかしい。
「ケンジはとにかくあたしの手をつかんでいて。タイムワープする瞬間はものすごい風に吹き飛ばされそうになるけど、なにがあってもあたしの手を放さないで。わかった?」
「ああ。でも、もし手を放しちゃったらどうなるんだよ?」
「ひとりで別の時代に飛んでっちゃうんだ。そうしたら、もう探しようがないから。安土桃山時代とかの川越でひとり暮らしをしてくれよ」
「安土桃山時代の川越ってどんなんだよ?」
「知らない。少なくともインベーダーゲームはないでしょ」
「やっぱ止めとくわ」
安土桃山時代の川越に、ひとり強風で吹き飛ばされて行く自分を想像しただけで足がすくんだ。ケンジは世界史を取っているので安土桃山時代のことはよくわからないが、そんな時代に髪を立てたパンク少年がウロウロしていたら、チョンマゲのサムライに問答無用で切り捨てられることは間違いない。
「なんだよそれ。怖いのかよ」
「まあな」
カッコつけている場合ではない。
「冗談だよ」
葉月はクスッと笑う。
「万が一吹き飛ばされたとしても、今日から5月14日までの間だから大丈夫だよ。期間が短いからすぐに探し出せるって」
「なんだよ、脅かしやがって」
「じゃあ行くよ」
鳥居を背にして参道を20メートルほど歩いて立ち止まり、振り返る。
「誰もいないよな?」
「ああ」
遠くのほうで子どもの歓声が聞こえるが、あたりに人影はない。
「じゃあ」
葉月はそう言うと、ケンジの手を握った。小さくて暖かい手だった。
真っ赤な鳥居を見つめた。あの先にはいままで体験したことがない、タイムワープが待っているのだ。ケンジは不安になって葉月の手を強く握りしめた。
「痛たたたっ。強すぎだって」
「ごめん」
「行くよ・・・・ゴー!」 
葉月の合図で手をつないで走り出す。葉月は「イチ、キュウ、ナナ、キュウ、ゴー、ジュウヨン」と唱えている。 
鳥居が近づいてくる。葉月が3回唱え終わるのと同時に鳥居をくぐった。 
同時に周囲がブラックアウトして火花が散った。すぐに強風が吹いて吹き飛ばされそうになる。葉月の手を必死に握った。身体が強風にあおられる吹き流しのように水平になっているのを感じる。
遠くで雷鳴のようなごう音がした。つぶっていた目を恐る恐る開けると、雨雲のなかを猛スピードで進んでいるような感じだった。不安に駆られて手をつないでいる葉月の顔を見た。
葉月は大きな目を開けて前方を見ていたが、ケンジのほうを見て、心配しないでとでも言いたげに微笑んだ。 
やがて風が徐々に弱まり、身体がゆっくりと水平から垂直に戻っていった。同時にあたりが明るくなっていく。
目の前に神社があった。見上げるとちょうど鳥居の真下だった。 
さっきまでの暑さが嘘のようなさわやかな風が吹いている。直射日光もやわらかく、明らかに季節がずれたようだった。
「5月14日に着いたか?」
ケンジは手をつないだままの葉月を見やる。風で髪が乱れていた。
「どうだろ? 多分何日かはずれてると思うけど。誰かに聞こう」
「裏山を登れば俺がいるんじゃないかな。 聞いてこようか?」
「ダメだよ。自分に会っちゃったらもう二度とタイムワープが出来なくなっちゃうんだ。その時間にもともといた自分もその時間にやってきた自分も。そうなったら悲惨だよ。同じ時間に自分がふたりいるんだから。まともに生きていけないよ」
「パーマンのコピーロボットみたいだな。代わり番こに学校に行けばいいから楽そうだけどな」
「ダメッたらダメッ」
葉月はいつになく真剣だ。
「じゃあここで待ってるから葉月が聞いてきてくれよ」 
葉月はうなずいて裏山に向かって駆けて行った。 
ベンチに座ってセブンスターをくわえた。見上げると新緑が風に揺れている。ちょっとした避暑だなと思いながら煙を吐いていると葉月が駆け戻って来た。なにやらすごく嬉しそうな顔をしている。
「いたか? 俺は」なんだか間抜けな質問だ。
「いたいた。相変わらずタバコ吸ってた。『ケンジ』って声をかけたら、あわてて『どちらさん?』だって。超ウケる」
「俺をからかってんじゃねえよ」 
わずか100メートルも離れていない所で、もう1人の自分が同じようにタバコを吸っているなんて、かなり妙な気分だ。
「で、今日は何月何日だって?」
「何月何日だったと思う?」
嬉しそうに胸をそらしている。
「わかんないよ」
「なんでもいいから言ってみな」
「うーん、じゃあ5月5日」
ケンジは当てずっぽうに言った。
「ハズレ! なんと5月14日だって。初めてビンゴだよ!」
「ホントかよ。何時何分だ?」
「2時5分すぎ」
「やばい、時間がないぞ」
ケンジはあわてて足でタバコをもみ消して駆け出した。
「なんだよ、どうしたんだよ?」
葉月もあとから追いかけてくる。 
裏山の麓にケンジの自転車があった。
「5月14日の俺には悪いけど、後で旭高校の自転車置き場に戻しておくということで許してもらおう」
自転車にまたがって葉月を振り返る。
「一緒に行く? それとも待ってる?」
「一緒に行く」
そう言って後ろの荷台に横座りした。 
とにかく急がなければ。葉月によると同じ日には2度来ることはできないらしい。だからいま間に合わなければ2度とチャンスはない。 
ペダルを漕ぐ足に力が入る。信号を無視して交差点を渡る。クラクションが背後から聞こえた。
「ちょっとケンジ、自転車で追いかけて来る人がいるよ。知り合い?」
葉月が背後で声をあげる。 
振り返ると警察だった。
「やべえ、マッポだ」
路地を曲がり、全速力でペダルをこいだ。
「マッポってなんだよ?」
「警察だよ、警察。いま捕まったら信号無視に二人乗り、それに自転車泥棒で面倒なことになる」
「自転車泥棒は大丈夫でしょ。自分の自転車なんだから」 
路地を抜けた先にある寺の境内を全速力で走り抜ける。縦箒で掃除をしている寺男の怒鳴り声がした。 
なんとか警官を巻いて本川越駅に着いた。西武新宿線の本川越駅と東武東上線の川越駅は離れたところにある。仲が悪いからかどうか知らないが、川越市民にしてみれば不便なことこの上ない。
「電車に乗るぞ」 
ケンジは所沢までの切符を2枚買い、1枚を葉月に渡した。葉月は慣れた手つきで改札の駅員に切符を差し出した。
本川越駅は西武新宿線のどん詰まりの終着駅だ。ホームには西武新宿行きの電車がすでに入っていた。 
乗り込むと運良く冷房車だ。ケンジは心底ホッとして葉月の顔を見たが、葉月は「冷房効き弱いし」と結局悪態をついた。 
所沢に着くまでの間、ケンジは葉月とすれ違いに火縄銃を脱退した岩澤のことを説明した。
「で、ケンジはその置き引きを阻止するべく、所沢に向かっているという訳?」
「まあな」
岩澤の親父が泥棒に大金を盗まれなければ、岩澤は火縄銃を辞めなくて済むし、大学進学もあきらめなくて済むはずだ。
「ずいぶん友だち思いじゃん」
「清水より岩澤のほうが全然ベース上手いんだわ。それだけだよ」 
所沢駅に着いた。駅の時計を見ると3時を回っている。 
所沢駅は西武新宿線と西武池袋線の二つの路線が通過する駅なので構内が広い。ホームも6番ホームまである。 
岩澤の親父は所沢駅で乗り換えて飯能に帰ろうとしていたらしい。つまり西武新宿線で所沢まできて西武池袋線に乗り換えて飯能に帰ろうとしていたのだ。そして、ホームのベンチでうとうとしている隙に、大金が入ったバッグを盗まれてしまった。
構内を見渡す。岩澤の親父はどのホームのベンチに座ったのか。
「問題は、岩澤の親父が所沢まで西武新宿線の下りで来たのか上りで来たのかまではわからないことだな」 
下りだったら1番ホーム、上りだったら線路を挟んだ隣の島の2番ホームだ。
「岩澤ってヤツに電話で聞いてみればいいじゃん」
「ホームに公衆電話なんか置いてないよ。そもそも岩澤のうちの電話番号なんて覚えてないし」
 ケンジがそう言うと葉月は深いため息をついた。
「つくづくめんどくせえ時代だな」 
カチンと来たが、いまは葉月の暴言にかまっている場合じゃない。 
ちなみに所沢から飯能に向かうには、2番ホームがある島のさらに線路を挟んだ隣の4番ホームか5番ホームから出る池袋線に乗ることになる。 
とりあえず、すべてのホームのベンチを見て回ることにした。ベンチに座っているのは年寄りや小さい子どもを連れた主婦らしき女性が多かった。岩澤の親父の姿はない。岩澤の親父には2年のときに一度会ったことがあるだけだが、顔を見ればわかるはずだ。
「岩澤の親父は下りか上りかはわからないけど西武新宿線でここまで来て、飯能行きの電車が出るホームに移動して、まだ電車が来てなかったからベンチに腰掛けたんだと思う。だから4番5番のホームで待っていよう」 
ホームにベンチは二か所あったのでケンジと葉月は別れて見張ることにした。 
岩澤の親父はなかなか現れなかった。その間、黄色い車体の電車が出たり入ったりした。
もしかしたら、ケンジたちが所沢駅に着いたのはすでに事件が起きた後だったのかもしれない。ケンジは絶望的な気持ちになってきた。 
もうそろそろ帰ろうと思い始めた頃、葉月が息を切らして走って来た。
「ねえ、ちょっと来て」そう言ってケンジの手をつかむ。 
ケンジは葉月に手を引っ張られてホームを走った。ボンタンを履いた地元の高校のツッパリ3人が座り込んでタバコを吸っていた。彼らの刺すような視線を無視して通り過ぎる。
「ほら、あのベンチの人」 
葉月が指差しているのは2番3番のホームがある島のさらに向こう側の1番ホームのベンチのようだった。背広を着た中年らしき男が腕を組んで座り込んでいる。横には青いショルダーバッグが置いてある。 
ここからは遠い上にうつむいているので顔ははっきりわからない。でも、岩澤の親父の可能性が高い。
「行ってみよう」 
階段を駆け上がって跨線橋を走った。1番ホームに降りていくと、ちょうど西武新宿線の下り電車が到着してドアが開いたところだった。中年男性が座っていたベンチには誰もいなかった。 
ドアが閉まり、電車がゆっくり動き出す。
「どこ行った?」
「この電車に乗ったんじゃないの?」
「そうだとすると、さっきの男は岩澤の親父じゃないな」
飯能に帰るはずの岩澤の親父が西武新宿線の下り列車に乗るはずがない。
「あれ、あれは?」 
視界を遮っていた下り電車がいなくなり、ほかのホームが見渡せた。そしてすぐ隣の2番線ホームの目の前のベンチに今度こそ岩澤の親父が座っていた。
ケンジはその頭を見て思い出した。岩澤の親父は頭のてっぺんがきれいに禿げているのだ。だからさっきの男は岩澤の親父のはずはなかった。 
岩澤の親父はグレーのジャケットを着て腕を組み、舟をこいでいる。よほど酒を飲んだのだろう。顔が真っ赤だ。ベンチの傍らには黒いポーチが置いてあった。 
ちょうどそのとき、そのポーチをはさんだ反対側に岩澤の親父と同年代くらいのやせた男が浅く腰掛けた。黒いハンチングを被り、マスクをしたその男は、きょろきょろとあたりの様子を伺うと、そっと右手をポーチに伸ばした。
「やばい、あいつが犯人だ」
ケンジは跨線橋に向かって走り出した。あのベンチにたどり着くまでに三十秒くらいかかるだろうか。しかし三十秒あれば余裕で逃げられてしまうだろう。
「ドロボー! ドロボー!」 
背後で葉月の大声がした。驚いて2番ホームを見ると、黒いハンチングの男はあわてて手を引っ込めて逃げ出した。ホームにいた駅員と乗客が、何事かと走り去った男と葉月を交互に見ている。岩澤の親父は相変わらず舟をこいでいた。
「どうしようもないね、あのオジサン。あたしが起こしてくるよ」
葉月はゆっくりと跨線橋を上がって行った。 
葉月が岩澤の親父を起こして追い立てるように4番ホームに連れて行くのを、ケンジは1番ホームからニヤニヤしながら見ていた。
葉月がなにを言っているのかまでは聞こえなかったが、葉月は自分の父親と同世代のはずの岩澤の親父に散々説教しているようで、岩澤の親父は何度も頭を下げている。

「あそこで大声を出すという発想はなかったな」
本川越駅に戻る電車のシートに並んで座りながら、ケンジは葉月の機転をほめたたえた。
「で、岩澤の親父はなんだって?」
「あたしがもう少しでバッグを盗まれるところだったって言ったら、もう一生お酒は飲まないってしきりに反省してたよ」
「まあ、酒好きなあのオヤジにそれは無理だろうけどな」
「家に帰ったら岩澤ってヤツに電話してみなよ」
「いいよ、面倒くさいから。あいつの母親、話長いから電話したくないんだよね」
「そっか。家の電話だから親が出ちゃうんだ」
「当たり前じゃん」
「彼女に電話しづらいだろ?」
「彼女なんかいねえよ」
「ウソつけ」
隣に座っている葉月の顔に目を向けた。疑わしそうな目をしてケンジを見ている。一瞬恵かと思ったほど、顔が似ていた。結局男は同じようなタイプの女の子と仲良くなるということだろうか。
「いないもんはいないんだよ」
「モテないんだ、ケンジ」
肘でケンジの脇腹を突いてニヤニヤしている。
「まあな。だいたい俺、電話って好きじゃないんだ。だからあんまりかけない」
「ふーん。なんか新鮮かも、そういうの。それはそれで面倒がなくていいかもね」 
ガラガラの車両の隅の網棚に荷物が載っているのが目に入った。近づいて行き、手に取った。どうやら本の忘れ物らしい。都内の大手書店の紙袋だ。 
席に戻り本を取り出してみた。予想通り、キャンディーズの写真集だった。国井が失くした失くしたと騒いでいたものに違いない。
「どうやら、岩澤ばかりか国井も救っちゃったみたいだわ」


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