小説『時をかける彼女』⑦


第7話「ケンジはハーちゃんのこと好きなんだろ?」

「ケンジ、今日ヒマ?」 
扇風機に当たりながら家でごろごろしていると清水から電話が入った。まだ昼前だというのに、家のなかにいても汗が出る暑さだ。庭の柿の木にたかったアブラゼミの鳴き声が暑さに拍車をかけている。
「ああ、ヒマもヒマ、もろヒマだよ」 
今日は塾もなければバイトもない。葉月とは先日タイムワープしたときの「失言キス」で気まずくなっていて、会う予定もない。
「暑くてなにもする気にならん。涼みがてらインベーダーでもやりに行くか」 
ケンジがそう言うと、清水は「それより放送部の合宿に行かねえか? たまには積もる話でもしようや」と言った。 
ケンジも清水も所属しているのは軽音楽部で放送部とはなんの関係もないが、朝礼をさぼるときによく放送室を利用させてもらっていることもあり、放送部のヤツらとは仲が良かった。 
放送部は毎年夏休みに学校内にある宿泊施設で合宿をしている。合宿と言っても夜遅くまで雑談してこっそりお酒を飲んで、ということくらいしかしていない。放送部員は7人と少ないので、清水は賑やかしに誘われたらしい。 
夕方、自販機でビールを買い込んでバッグに詰めて高校に行くと、放送部のヤツらは珍しく放送室でなにやら録音をしていた。なにをやっているのかと聞くと、ディープ・パープルの「バーン」を、ボーカルはもちろん、ギターからドラム、キーボード、ベースまで全パートを口で再現して録音するのだという。 
面白そうなのでしばらく見ていたが、5人全員がマイクに向かって真剣にモゴモゴ歌っている姿があまりにもバカバカしく、「こいつらも旭高校の落ちこぼれグループだな」と確信して合宿所に向かった。 
合宿所の二十畳はある大部屋では、早くも清水がひとりでウイスキーのカティーサークを水道の水で割って飲んでいた。今日は腰をすえて飲むつもりらしい。 
しばらくは先日あった広栄女子高との合コンの話で盛り上がった。誰がいちばん可愛かったかというような話だ。 
合コンと言っても別に居酒屋で酒を飲むわけではない。旭高校か広栄女子高校、どちらかの教室でジュースとお菓子で盛り上がるだけだ。やることといえば、クイズ大会とかハンカチ落としといった他愛もない子どもじみたゲームだ。学校公認の、健全なリクレーションである。 
合コンでの女の子の目を意識したクラスメートの空回りぶりを散々笑った後、清水がポツリと言った。
「ケンジはハーちゃんのこと好きなんだろ?」 
清水の唐突な質問にケンジは言葉に詰まった。清水が葉月のことを好きなのはしばらく前から気づいていた。清水は2年前の高校1年の夏休みに、当時付き合っていた彼女とレッド・ツェッペリンの映画『狂熱のライブ』を新宿まで観に行った帰りに大ゲンカしてフラれた後は彼女はいない。経験済みみたいな口ぶりだが、恐らくまだ童貞のはずだ。 
清水と彼女のケンカは、清水が彼女の男友達のことを根掘り葉掘り聞いたことが原因らしい。清水は嫉妬深いところがあり、それが致命傷となった。デートの下見につき合ったケンジもガッカリした。 
放送部の連中はくだらない録音に熱中しているらしく、なかなか合宿所に姿を現さない。ケンジと清水はサシで飲み続け、ケンジは酔った清水の熱い恋愛論を延々と聞かされるハメになった。
清水は「恋愛もいいけど友情のほうが大事だ」と繰り返し言った。 
わかりやすいヤツだ。葉月のことを好きだけどケンジがいるから遠慮すると何度も言われているようなものだ。 
でも、ケンジは正直自分の気持ちがよく分からなかった。葉月には吹っ切れたと言ったものの、心の中ではまだ恵のことを引きずっていた。葉月が怒るのも当たり前だ。 


清水の熱い恋愛論を聞かされたせいか、その夜、恵が夢に出てきた。夢のなかで、恵は歩道橋の上から下にいるケンジを呼んでいた。原宿駅前の歩道橋らしかった。 
高1のとき、恵と初デートで渋谷に映画を観に行き、映画を観た後、原宿まで歩いたときに渡った歩道橋だ。歩道橋の上から手を振る恵を、親に借りたカメラで撮った。 
ケンジを呼ぶ恵の声が耳に残ったまま目が覚めた。 
真っ暗だった。一瞬自分がどこにいるのかわからなかったが、すぐに思い出した。夜遅く、清水のイビキがあまりにうるさくて布団部屋に避難したのだ。放送部のヤツらはケンジたちが寝るまで合宿所に顔を出さなかったが、いつの間に戻って来たのか、布団部屋に移動するときはみんな寝ていた。 
締め切っているからか蒸し暑い。パチパチという木がはぜるような音がする。なにやら焦げ臭い。ふすまの外が明るいのが隙間から見て取れた。 
火事だ。 
そう気づいたがすぐに身体が動かなかった。腰が抜けたようになっている。 
しばらくして、ふすまが勢いよく開いた。開いたふすまの向こう側はオレンジ一色だった。
その明かりをバックに黒い人影が立っていた。
「こんなところにいたの? 早く逃げなきゃ!」
切羽詰まった女の人の声だった。 
腕をつかまれ、引きずられるようにして布団部屋を出た。あたりは火の海だった。ケンジは足に力が入らず再びその場に座り込んだ。
「しっかりしなさい。男でしょ!」 
その女性の顔も火の明かりでオレンジ色に輝いている。二十代後半くらいだろうか。どこかで会ったことがあるような気がしたが、もちろんその年代の女性に知り合いなどいない。 
女性に導かれるままに裸足のまま校庭に出た。校庭には清水や放送部のヤツらが呆然と立ちすくんでいた。彼らもみな裸足だった。 
合宿所を振り返ると、夢の続きを見ているような信じられない光景が広がっていた。火の粉が空高く舞い上がり、建物全体が火に包まれている。遠くから消防車のサイレンが聞こえた。 


ケンジたちがもっとも心配したのは誰かのタバコの火の不始末が火事の原因ではないかということだった。しかし、ケンジたちが火の不始末について厳しく取り調べられる前に、電気系統の燃え方が激しいということで、漏電が原因ということになり命拾いした 
しかし、放送部員たちは無罪放免となったが、放送部員ではないケンジと清水は学校に無届けで泊まっていたので1週間の自宅謹慎を言い渡された。夏休み中の自宅謹慎なんか無視すればいいと思ったが、ちょうど夏休みを取っていた親父が珍しく激怒して自宅から一歩も出られなくなった。 
気の小さい親父にしてみれば、学校の火事に自分の息子がかかわっていたというだけで精神的に容量オーバーなのだろう。それを「けっ」とバカにして無視するという手もなくはなかったけれど、たまには定年間際の親父の顔を立ててやらなければと思い、家でおとなしくしていた。
謹慎3日目に親父の夏休みが終わったので、ケンジは自転車に乗って裏山に向かった。用心のため、キャップを目深にかぶった。 
東屋には誰もいなかった。ベンチに腰を下ろしてセブンスターをくわえ、旭高校を眺めた。 
校庭では野球部が練習していた。その向こうには全焼した合宿所の無残な姿が見える。自分には責任はないとはいえ、やはり胸が痛んだ。 
野球部員の掛け合う声に混じって、ツクツクボウシの鳴き声がしていた。 
1時間ほどいたが、葉月は現れなかった。まだケンジのことを怒っているのだろうか。あきらめて裏山を降り、おなかがすいたので焼きそば屋に入った。
大盛りを頼み、ついでにファンタグレープも注文する。 
扇風機が首を振っている。薄暗い店内から開け放たれた引き戸の外を見ると、強力な日の光のせいで露出オーバーな写真のように景色がぼやけて見えた。 
出てきたファンタを一口飲むと、ついため息が出た。 
どうもうまく行かない。日本中の高校3年生のなかで自分がいちばんくだらない夏休みを過ごしているような気がしてくる。 
葉月はもうこの時代に来るのを止めてしまったのではないか。ふとそんな考えが頭をよぎる。こんな不便な時代のこんなくだらない自分につき合っているのがバカバカしくなったのだ。 
一度その考えに取り憑かれてしまうともうダメだった。葉月には二度と会えない。再び葉月に会うにはあと二十年待たなければならない。しかも二十年待っても葉月はまだ赤ん坊なのだ・・・・。 
出された焼きそばに手をつける気にならずにぼんやり外を見ていた。

入口にぶら下げられた風鈴がチリンと鳴った。 
そのとき、女の子が視界を横切った。葉月に似ていた。ケンジはあわてて店を飛び出し、離れていく女の子の背中に向かって大声で名前を呼んだ。
振り返った女の子はずいぶん大人びていたがやはり葉月だった。
「なにしてんだよ」
「ケンジこそ、この2日間なにしてたんだよ!」
大人びてはいるが口を開けばいつもの葉月だったので安心した。
「大変なことがあってさ」
「おい、焼きそばどうすんだよ!」 
店のじいさんに肩をつかまれた。


「ちょうどおなかがすいてたんだ。これですべて水に流してやるよ」 
葉月はそう言うとケンジが頼んだ焼きそばを勝手に頬張った。焼きそばの大盛りで、葉月はケンジの「失言キス」を許してくれたようだった。
「なんかさ、葉月また大きくなってねえか?」
くつろいだ気分で葉月に聞いた。 
この前会ったのが4日前だから、その間、葉月の時間は40日過ぎたことになる。
「あ、あたし高3になったよ。ついにケンジと同級生」
「ホントかよ。もうすぐ追い抜かれるじゃん」
ケンジは妙な焦りを覚える。
「で、大変なことってなにがあったんだよ?」
「学校で火事があってさ。合宿所が全焼しちゃって。で、そこに本当はいてはいけない俺と清水がいたもんだから、1週間の自宅謹慎になっちまったんだわ」 
葉月の箸が止まった。焼きそばを頬張ったままポカンとした顔でケンジを見ている。
「なんだ? どうした?」
「ケンジもあの火事のときに合宿所にいたの?」
「なんだ、火事のこと知ってたのか」
「あの日は放送部の合宿だったって聞いたけど」
「そうなんだけどさ、俺と清水はスペシャルゲストだったんだわ」
「マジかよ・・・・」
葉月は深刻な顔をしている。
「なんだよ、どうしたんだよ?」
「ねえ、火事のとき誰かに会わなかった?」
「誰かって誰だよ?」
「女の人」 
いまのいままですっかり忘れていた。確かにあの夜、ケンジは二十代くらいの女性に助けてもらったのだ。ケンジだけではない。清水も放送部のヤツらも、あの女性に起こされなかったら逃げ遅れるところだったと言っていた。しかし、消防車が到着したときには、その女性は姿を消していた。
「なんでそんなことまで知ってるんだよ」
「3か月もずれちゃったけど、あたし、実は火事の日に来るつもりだったんだ。火事のときに合宿所にいた生徒のなかにあたしのお父さんがいるはずなんだ」
「本当かよ?」
葉月はうなずいた。
「3日前の火事の夜、校庭の隅で様子を伺っていたら、消防車の人たちが放送部の生徒だって言っているのが聞こえたんだ。それでこの2日間、ずっと放送部員のことを調べてたんだよ。でも、夏休みだからわかんなくてさ。ケンジもいないし」 
葉月はそこで箸を置き、泣き顔になった。
「ちょっとちょっと、話がまったく見えないんだけど。なんで火事のときに合宿所にいた生徒のなかに父親がいるってわかるんだ? 順を追って話してくれるか」
ケンジは奥に向かって大声を上げた。
「ファンタオレンジ2つ!」
「1つはグレープで」
葉月が訂正した。 


葉月が十一歳のときのことだと言う。彼女は当時、旭高校の近くにある初雁小学校に通っていた。 
その日は9月1日の防災の日で、初雁小学校では防災訓練が行われた。防災訓練の後、全校生徒が校庭に集められた。そこであいさつをした校長は三十一年前にあった旭高校の火事のことを話した。
「合宿中だった7人の生徒が逃げ遅れて亡くなるという痛ましい事故でした。皆さんも火事には十分気をつけてください」 
そのことを家に帰ってから話すと母親は絶句したらしい。そして「図書館に行きたい」と言い出した母親につき合ってクルマで出かけた。 
図書館に着くと葉月の母親はすぐに図書館員に過去の新聞が見たいと言って三十一年前の縮刷版を出してもらった。 
母親が旭高校の火事の記事を探しているのは明らかだった。葉月はしばらく図書館の本を見て回ってから再び母親のところに戻った。 
母親は縮刷版に目を落としたまま真っ青な顔をしていた。葉月がのぞいてみるとそこには「高校生、火の海に」の大見出しとともに7人の旭高生の顔写真が並んでいた。 
家に帰ると母親は葉月だけクルマから降ろし、「ちょっと出かけてくる」と言ってそのままクルマで出かけて行った。もう夕方の5時を回っていたが、葉月は母親にどこに行くのか聞いてはいけない気がして黙っていた。 
母親はしばらく帰って来ないだろう。葉月は漠然とそんな予感がした。しかし、葉月が靴を脱ぎ、リビングに入って十分もしないうちに車庫のほうでクルマのエンジン音がして母親が帰って来た。
忘れ物でもしたのだろうと思ったが、リビングに入ってきた母親は、「くたびれたのでちょっと横になる」とだけ言って自室に入ってしまった。確かに母親はグッタリしていた。わずか十分の間に何をすればこんなに疲労困ぱいするのか、葉月にはまったく理解出来なかった。  
一時間ほどして自室から出てきた母親に、葉月はどこに行ったのか聞いたという。しかし母親は「買い物に行っただけだ」と言うばかりだった。
明らかに嘘をついている。幼い葉月はそう思った。
「お母さんがその日どこに行ったのか、ずっとわからなかったんだけれど、十五歳になっておばあちゃんに特殊な能力のことを聞いてピンと来たんだ。お母さんはあの日、1979年に行ったんだろうって。火事で死んだ生徒を助けに行ったんだよ」 
そこまで行って葉月はファンタグレープをひと口飲んだ。
「お母さん、わざわざ時を超えて火事の中に飛び込んで行ったんだ。一歩間違えたら自分が死んじゃうかもしれないのに。それでも助けたかったのは、それだけお母さんにとって大切な人だったということだろ? きっとあたしのお父さんになる人に間違いないよ」 
葉月の母親は葉月をひとりで産んでひとりで育ててきた。家には葉月の父親の写真はおろか、父親がいた痕跡がまったくなかった。そして、母親は決して葉月に父親のことを話そうとしない。
葉月がつかんだ父親の唯一の手がかり、それが旭高校の火事だったのだ。
「計算してみたらお母さんと同い年だといま高3になるんだよ。間違いないと思うんだ」 
火事の夜に合宿所にいたのは放送部員とケンジと清水で合計9人だ。死んで新聞に載った7人はそのうち誰だろう。
「なあ、俺は新聞に載ってたか」 
ケンジが恐る恐る聞くと、葉月は「わかんない」と首を振った。
「ネットで検索してみたんだけど載ってなくてさ」
「ちょっと待った。ネットってなんだよ」
「ネットはネットだよ。あらゆる情報を検索できるんだ」
「それだけじゃわかんねーって」
「わかんなくてもいいよ。いまはそれどころじゃないって」 
ケンジはカチンと来たけど黙っていた。
「ネットで見つからないから図書館に行ったんだ。4年前にお母さんと一緒に行った図書館」
「それで?」
「なかなか見つからなくてさ。ようやく見つけたのが地方版に載ったわずか7行の記事。旭高校で火事があったけど誰も死んでないしケガ人もいなかったって」 
その記事ならケンジも家で取っている新聞で昨日読んだ。
「当然生徒の写真も名前もなし。だから自分で探すしかないと思ってこの時代に来たんだ。3か月もずれちゃったけどね」
葉月がこの時代にやって来た理由がようやくわかった。
「でもさ、火事のこと知ってたんだったら事前に教えろよ。ひでえヤツだな。おかげで危うく死ぬところだったんだぞ」
「でも助かるってわかってたし。だいたい歴史の改変は2回は出来ないの。すでにお母さんが改変したものを私がさらに改変することは不可能なんだよ」
「また頭痛くなってきた。話が訳わからなすぎだわ」
「だから、火事のときケンジがあった女の人・・・・」
「誰だよ?」 
葉月は心底呆れたといった顔でケンジを見た。
「ここまで説明してるのにまだわかんないの?」
「悪かったなバカで」
「だからあたしのお母さんだって」
「ありえないわ」
「なんでよ?」
「葉月のお母さんにしちゃ若すぎだよ。いくつだ? 葉月のお母さんって」
「いまは五十五歳だけど、火事でケンジが会ったのは四十九歳のときのお母さんだよ」
「俺が会ったのはどう見ても二十代だったぜ」
「ケンジの時代の四十代とあたしの時代の四十代じゃあ、全然違うんだよ。それにあたしのお母さん、異様に若く見えるんだよね。二十代に見えてもおかしくないよ」 
葉月はそう言うと、コップに残ったファンタを飲み干した。
「それにしても、ケンジがいたとはビックリだな。もしかして・・・・」
葉月はケンジを上目づかいで見る。
「なんだよ?」
ケンジも残りのファンタを飲んだ。
「もしかしてケンジ、あたしのお父さんとか?」 
思わずファンタを噴き出した。
「なにバカなこと言ってんだよ」
「だって、可能性はゼロじゃないし」
「ありえないわ。そもそもさ、自分の父親を探したければ自分が生まれた時代に戻るほうが簡単じゃん」
「そうなんだけどさ。あたし、おばあちゃんに特殊な能力のことを聞いてすぐに1998年に行ってみたんだよ。ほら、あたし1999年生まれだから、その前の年ならふたりで仲良くやっていると思ってさ」
「いたのか?」 
葉月は首を振った。
「お父さんどころか、お母さんもいなかったんだ。どこにも」


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