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死について考える

人はいつかは誰もが死んでゆくものなのに、そんなことを意識して生活している人は多くはないでしょう。ただ歳を重ねて行くにつれ、体力が落ち、健康診断での数値も好ましくないものになってくるとそれほど長くは生きられないだろうと思うことも増えてきます。そして致命的な病気を宣告された日には、いよいよあと何年行きられるだろうと自分の人生の終末を意識するのです。

死んでゆくと言うことは、誰にとっても、とても嫌なことですが、誰も避けて通ることはできない現実なのです。どんなにもがいても、受け入れなければならない現実です。なので終末を迎えることになったとしてもジタバタしてもなんの意味はなく、私たちはそれを受け止めることしかできないのです。余命を宣告されたとしても、人生最後の日まで残された日々を精一杯楽しんで過ごす方が精神衛生上よろしいのでしょう。

それにしても街に暮らす人々を見ていると、だれもがそんなことを思っているとは到底思えません。働き盛りのサラリーマンは、その日その日の仕事で成果を出して出世しようと思っているでしょうし、学生さんは試験の結果に一喜一憂し、将来を夢見ているでしょう。子育て中のお母さんは、子供が健康で素直に育って欲しいと頑張っているのです。それが何千年と続く人の世の常なのでしょう。

それにしても、人の死は様々なかたちで訪れます。毎日のように、ニュースでは川や海での事故で亡くなったとの報道があります。病気を宣告されることもなく、その日の朝までまさか自分に死が訪れるなどとは思いもしなかったでしょう。また交通事故でも毎日のように死亡事故が起こっています。あまりにも突然なので、残された家族は、すぐには、その事実を受け入れることはできないでしょう。

先の戦争では、300万人越えの日本人が命を落としています。その一人一人にかけがえのない人生があったはずです。海外に目を向ければ、ウクライナやガザでは毎日かけがえのない命が失われているのです。

夏目漱石も正岡子規も土方歳三も近藤勇もみなそれぞれの死を迎えました。それでも社会は変わらずに繋がれているがこの世の常なのです。

私たちは日々あまり思いもしないでしょうが、死と隣り合わせの人生を生きているのです。そう考えると今日生きていることに感謝することを忘れてはいけないでしょう。そしてたとえ余命を宣告されたとしても、沈むことなく感謝を忘れず日々精一杯できることを行い残された日を楽しむのがいいでしょう。




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