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「MaaS」を取り巻くワードの“一人歩き感”


みなさん、こんにちは。
某メーカー勤務、新規事業・マーケティングを専門とするHiroです。

新たな世界に触れることが好きで、未だ部分的であるものの色々な場所、人、モノと触れ合ってきました。その中で心に響いたこと、感じたこと、皆さんに少しでも伝えたいと思ったことをこのnoteで書き綴っています。

今回皆さんにお話ししたいのは、世間を賑わせているMaaS (Mobility as a Service)について。個人的な考えではありますが、少しでも共感していただける方がいれば嬉しいです。

毎日のように見る“MaaS”という言葉

普段勤務しているのは、オートモーティブ系の会社。
業界の特性上、社内外との打ち合わせの際には、「自動運転が...」「シェアリングサービスが...」といった文脈の話を毎日のように耳にする。また、毎日読んでいる日経新聞では、少なくとも2日に1回は、”MaaS“というキーワードを見かける気がする。

昨今の世の中ではMaaSとそれにまつわるという言葉が溢れているのだ。

そもそもMaaSってなに?

そもそもMaaSってなんだろう。普段からよく聞くのだけれども、その問に明確に答えることは意外と難しい。一度ここで“MaaS“という言葉の意味を再確認したい。

国交省の機関紙 Perspective「MaaS (モビリティ・アズ・ア・サービス) について」では、

MaaS の定義は、発達中の新しいサービスであることから、先行している海外においても定まったものがないのが現状で、国や研究者によっても定義内容や含まれる範囲に違いがあるようである。
MaaS は、ICT を活用して交通をクラウド化し、公共交通か否か、またその運営主体にかかわらず、マイカー以外のすべての交通手段によるモビリティ(移動)を 1 つのサービスとしてとらえ、シームレスにつなぐ 新たな「移動」の概念である。

と述べられている。

また、2015 年 ITS 世界会議で設立された MaaS Alliance では、

MaaS は、いろいろな種類の交通サービスを、需要に応じて利用できる一つの移動サービスに統合することである

とされている。

要するに、未だ明確に定義されていないものの、MaaSとは「さまざまな交通手段がICTによって一つのサービスに統合される、といった新たな移動手段の概念」と言える。

従って、自動運転やシェアリングサービスはあくまで一つの交通手段であり、MaaSの一構成要素として位置づけることができる。

否めない、MaaSや自動運転というワードの一人歩き感

自動運転の実証実験が米国等の海外で行われるたびに、「自動運転の実用化は202◯年?」「これからは自動運転の時代!」といった言葉が飛び交う。

また、「これからはシェアの時代で、都市交通ではカーシェア、ライドシェアの車両が多くを占める。自家用車は淘汰される。」といった言葉もよく聞く。(本当に耳にタコができるくらい...)

ただ、その言葉を聞くたびに違和感を覚えるのだ。

もちろん自動運転やシェアリングサービスが、モビリティ社会において大きな潮流であって、大きな変革のトリガーになり得るのは間違いない。しかしながら、やはり文脈的に、“一人歩き感”が否めないのだ。

具体的にどういうことかというと、今注目されているのはあくまで交通の一構成要素にすぎない、ということ。昨今の注目対象は、あくまで自動運転”技術“やシェアリング”サービス“といった、あくまで単体要素。もちろん、そういった新たな技術やサービスそのものが、世の中を変えるブレークスルーになることもあるが、現実的には、交通全体のマクロな視点が必要になる。

それぞれの国、あるいは、地方自治体は、交通のマスタープラン(将来的に交通をどのように整備して、どのように機能させたいかといった構想・施策)を策定している。特に近年は、”スマートシティ“化の動きによって交通施策の議論の活発化が進む。

結局のところ、移動手段の技術やサービスがこの全体構想にハマるか、その街にフィットするか、が重要で、逆にハマらなかったら技術やサービスがどんなに先進的なものだったとしても交通プラットフォームに受け入れられることはないのだ。

よくありがちなテクノロジーの当てつけ

MaaSを取り巻くキーワードが飛び交う中で、最も違和感があるものの一つが、
鉄道廃線地域で行われる自動運転の実証実験。

鉄道の利用者が極めて少なく、事業継続できなくなったが故の廃線であるにもかかわらず、未だ導入・維持費用が高い自動運転車を活用してどうしたいのか。
それは果たして、地域住民が求めているものなのか。自動運転の実証実験の実績を作りたい、という企業側の都合で推し進めているだけではないのか。

未だ実証実験段階であるものの、関連記事を見るたびに、そういった疑念が湧き出てくる。

そういった地域に多い高齢者の方々にとって、「鉄道を利用して移動したかったのだけど、自宅から駅まで、または、駅から目的地までの移動手段がなかった」などの不便さが鉄道を利用しなかった主な理由なのであれば、地元のタクシー会社と連携して配車サービスを整備すればよい。

または、「いやいや、移動したいとかではなくて、必要な食材や薬を取りに行きたいだけなのよ」ということであれば、むしろ、コミュニティ形成の中でP2Pの物資運搬が発生する仕組みを構築する、あるいはUber Eats的なオンデマンドサービスを整備した方が現実的かもしれない。

そういった地域では、そもそも移動や物資運搬に対するニーズ発生頻度もそこまで高くないだろうから、現実的な話、自動運転車両の運搬サービスの採算性が成り立たなくて鉄道と同じように廃止になってしまう可能性は極めて高い。

プロジェクトの当事者ではないので、その中での議論の内実は全く知らないが、やはりその街、地域住民が真に求めることは何か、という視点がベースにあって、その上で最適な交通手段を考えるべきだと思う。

これからの街づくりにフィットする交通サービスを

結局のところ、この記事でお伝えをしたかったのは、近年、移動にまつわる技術やサービスがとても注目されていて、それ自体は素晴らしいことなのだけれど、それら交通手段というのは果たして街にフィットするものなのか、その街に住む/訪れる人々にとって必要とされうるものなのか、という視点を忘れてはならない
ということ。

自動運転の記事を見ると、多くの人が言うように「自動運転すごいよね。早く日本でも実用化して欲しい」といった単純な考えになりがちではあるが、果たしてそれはなぜ必要なのか、どのような意義があるのか、という視点を持つと、よりそういった新たな潮流に対する考えや理解が深まるではないか、と思う。


※本記事のカバー画像 参照元:TrafficTechnologyToday.com

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Hiro Nakayama
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