地元愛あふれる男。パルセイロ加入は小学生時代からの“念願”だった
小学生時代から地元・長野県でJリーガーになることを憧れていたGK寺沢優太。昨季はAC長野パルセイロでその夢を叶えた。わずか1年の挑戦に終わったが、ピッチ内外で地元愛を深める日々。彼の地元への想いは、今も並々ならぬものがある。
■寺沢 優太(てらさわ ゆうた)
1993年7月31日生まれ。ピッチ内では最後方から味方を鼓舞し、ピッチ外ではSNSでの発信や地域貢献に力を入れる。
出身:長野県岡谷市
経歴:岡谷東部FC→F.C.CEDAC→都市大塩尻高→関東学院大→ヒラル・ベルクハイム(ドイツ)→奈良クラブ→沖縄SV→AC長野パルセイロ→南葛SC
「田舎のGKが来た」。県外行きを決心した理由
――寺沢選手は岡谷市出身ですよね。
中学のときに両親が離婚するまでは岡谷にいました。離婚した後は塩尻に移りましたけど、隣町なのでそこまで変わらなかったです。
――地元のお気に入りスポットは?
諏訪湖はもちろんですし、岡谷市立図書館も思い入れが深いです。時間があれば弟とボールを持っていって、図書館の前にある公園の芝生でサッカーしていました。あとは母校の岡谷小学校の校庭、間下堤公園…。至るところでボールを蹴っていたのを覚えています。
――中学はF.C.CEDAC、高校は都市大塩尻と地元に近い環境でプレーしました。県外に出るという選択肢はなかったですか?
小学校から中学に行くときは全く考えていなくて、中学から高校に行くときは絶対に県外に出ようと思っていました。中1からそう思い始めたんですけど、両親の離婚もあったので、家族のことを考えて高校でも地元に残りました。
――高校卒業後は関東学院大学に行きましたね。
中3〜高2のときに『ナショナルトレーニングキャンプU-16東日本』に選ばれて、そこで「お前どこのチーム?」「名もない田舎のGKが来た」と馬鹿にされたんです。なかなか話してもらえなかったし、練習でも僕にパスをくれなかった。その経験があったから、彼らを見返すために県外に出ようと思いました。
――いろいろな選択肢があったと思いますが、なぜ関東学院大学を選んだのですか?
正直行けるところがなかったんです。高2から大学の練習参加とセレクションに行って、高3でもう一回行ったけど全部ダメで。流通経済大、中央大、明治大、日本体育大…。セレクションの合否を当日に言われて、新宿駅のトイレで泣いたこともありました。それで都市大塩尻の高橋(裕之)監督に電話して、「どこも行くところがない」と。高橋監督はインターハイとかの映像を全部まとめて、(横浜F・)マリノスと提携している関東学院大学にアプローチしてくれました。最後はなんとかスポーツ推薦で行くことが決まったのでよかったです。
――なるほど。今回は地元がテーマなので、大学時代の話はまた今度聞かせてください。
地元のJクラブへの憧れ。覚悟を胸にパルセイロへ
――長野県にはAC長野パルセイロと松本山雅FCがあります。この2つのJクラブは、ご自身にとってどんな存在でしたか?
僕が小学生のときは地元にJクラブが1つもなくて、「長野県でJクラブを作ろう」という企画書を書いていました。小学生ながら、どうしたらJリーグに入れるクラブができるかを考えていたんです。育成年代をこうすべきだとか、スタジアムが大事だとか……。それを担任の先生から岡谷市長に送ってもらいましたけど、当然返信はなかったですね(笑)。ただ、年齢を重ねるうちにパルセイロと山雅がJリーグに加盟して、僕も地元出身選手として活躍したいと思っていました。
――当時から発信力があったんですね(笑)。中信(松本市を中心とした県西部)育ちとしては、パルセイロより山雅のほうが馴染みはあったのでは?
そうですね。山雅は昔からサッカー専用スタジアムがありましたし、ファン・サポーターも多かったです。Jリーグに入ってからも、アルウィンに試合を見に行くことがありました。南長野(現長野Uスタジアム)は2011年の信州ダービーとか、高校の練習試合で行ったくらい。そこからUスタに変わりましたけど、パルセイロに加入するまでは行ったことがなかったです。
――山雅に練習参加したこともあるんですよね。
2019年にドイツから帰ってきて、山雅に練習参加しました。僕は小学校から「長野県でJクラブを作ろう」と考えていたくらいなので、そこに入れるチャンスが巡ってきたのは新鮮でした。ここで結果を出さなければいけないと思っていましたけど、願いは叶わなかったです。
――パルセイロの練習にも参加されたんですか?
山雅の練習参加が終わった後に直談判して行きました。もうチームの補強は終わっていましたけど、なんとか爪痕を残そうと最大限アピールしたつもりです。
――そこから奈良クラブと沖縄SVを経由して、昨季はパルセイロに加入。2年越しに念願が叶ったわけですね。
僕は大学で試合に出られなかったですし、そこから就活もせずに海を渡って、異国の地で差別を受けることもありました。日本に帰ってきてもJFLで出られなくて、カテゴリーを地域リーグに下げて。サッカー2割、仕事8割くらいの環境でやってきましたが、ようやく目標としていたJリーグにたどり着けました。本当に嬉しかったですし、ここで引退するという覚悟をもっていました。
九頭龍社は特別な地。深まる地元愛と責任感
――僕らメディアもそうですが、地元出身選手への期待は大きいものがあります。
それはすごく感じましたし、だからこそ結果を出さないといけないと思っていました。僕は地域リーグから来て試合にも出ていないのに、地元出身選手として取材してもらったり、イベントに呼んでもらったり。出ている選手からすれば「なんでお前が……」と感じたところはあるでしょうね。実際にそう言われることはなかったですけど。
――オフの日にはホームタウンを巡って、地元の魅力を発信していました。
行ってみないと分からないことはたくさんありました。僕がホームタウンパートナープレーヤーとして担当していた高山村も、パルセイロに入るまでは何も知らなかったです。実際に行ってみると標高が高くて、雷滝とか山田牧場もあって、すごくのどかな村でしたね。
――そのほかにも印象に残っているスポットはありますか?
戸隠ですね。もともと認知度が高い観光地ですけど、実は家族の縁も深くて。もう亡くなっているんですけど、母方のおばあちゃんがなかなか子供に恵まれない時期がありました。電車で神頼みにも回っていたら、たまたま車内で出会った和尚さんから「戸隠の九頭龍社に来なさい」と言われたらしいです。それで実際に参拝して、その1週間後に妊娠。そうして産まれたのが僕の母なので、もしおばあちゃんが九頭龍社に行っていなかったら、僕は産まれていないかもしれないです。
――そもそも電車で和尚さんと偶然出会うのがすごいですよね。
本当ですよね(笑)。僕も九頭龍社にはいつか行ってみたいと思ったので、ホームタウン巡りという形で行けたのは嬉しかったです。
――今もオフがあれば飯綱町で農業に励んでいますし、北信(長野市を中心とした県北部)にもだいぶ愛着がありそうですね。
正直、今は岡谷とか塩尻よりも愛着があるかもしれないです。長野県の方々に夢と希望を与える存在になりたいですし、今もそのために月1くらいで帰ってきていろいろな活動をしています。帰ってくると安心感もありますけど、「練習でミスをして、落ち込みながらここを通ったな…」とか複雑な気持ちにもなります。
――それはどうしても思い出しますよね。ちなみに今までプレーしてきた中で、「この人は地元愛がすごい」と感じた選手はいますか?
奈良クラブで一緒にプレーした島田拓海です。彼は大卒で地元の奈良クラブに入りましたけど、「このままでは奈良を背負えない」という思いをもって、去年からヴァンラーレ八戸でプレーしています。あとはアパレルブランドも立ち上げていて、オフザピッチでも地域の方々に物語を共有しながら戦っています。
――寺沢選手もオフザピッチでの取り組みはいろいろと画策しているのでは?
年々やりたいことが増えています。飯綱の農業もそうですし、何か地元に提供していきたいという思いは強いです。ただ、まずはピッチ内で表現するのが最優先。長野ではピッチ外でいろいろな方に応援していただいた反面、ピッチ内で期待に応えられなかったので、南葛SCでは結果で示していきたいと思っています。
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