確かにどちらも「とーたん」だった〜くちびるの会『老獣のおたけび』
僕の父はよく昔の話、それも僕が小さい頃の、記憶にないような時期の話をよくしてくれた。
例えばまだかろうじて喋るようになったような1歳ごろ。『西遊記』の読み聞かせをしていると、父は、僕が言葉を真似ていることに気がついた。僕は本当に落ち着きがなく、常に何か喋っていないと気が済まないようなわんぱく坊主だったらしい。「石の卵」がどうしても言えず、「石のたもま」と言って譲らなかったこと。僕が長男なのも相まって、それがたまらなく可愛かった話などを、はずがしがることもなく、マジな顔で語ってくる。
今でも思い出したように、幼少期の話をすることがある。僕ももう30代も中盤に差し掛かろうというのだから、そろそろ勘弁してほしいものである。
その中でよく聞いていた話がある。
動物園に行った時のこと。僕は動物を怖がることもなく、はしゃぎまくっていたらしいが、象の檻の前にきて一言こう呟いたらしい。
「とーたん」
目の前でむしゃむしゃと餌を食べる象を指差しながら言っているから、明らかにそれは目の前の「ゾウさん」のことだろう。しかし父はその呼び方の異変に気づいて、僕にこう聞いてきた。
「じゃあ、こっちは?」
父は指を自分自身に向けながら、僕の顔を覗き込みながら聞いてきた。僕はすかさず、さも当然だと言わんばかりにこう答えた。
「とーたん」
全く一緒なのである。
確かに父は痩せているとはお世辞にも言えないし、子供の僕にとっては大きな大きな背中(とお腹)だった。
小さい僕があまりにも自身たっぷりに言うから、僕の両親は笑ってしまったという、なんてことないエピソードだ。
劇場の暗闇の中、僕はこのエピソードを思い出していた。
くちびるの会『老獣のおたけび』@こまばアゴラ劇場
田舎で暮らす父親が、ある日突然「象」になった。
満席の会場の中、舞台美術の象のモチーフシルエットを眺めながら、父のことを考える。
脚本家の主人公・明利(薄平広樹)にある日電話がかかってくる。電話の主は銀行員の兄(木村圭介)だ。実家の愛知に一人で住む父親の様子が、どうも変らしい。様子を見てきてくれないかという相談で、いざ明利が実家に行ってみると、そこには父(中村まこと)が象になっていた。
明利の彼女(橘花梨)や近所の農家の親子(堀晃大と藤家矢麻刀)を巻き込みながら、父はどんどんと「象」そのものになっていく。そしてそれぞれが葛藤していく。
フランスで活躍したルーマニア人の劇作家にウジェーヌ・イヨネスコという人がいる。人間の姿を滑稽に、時に寓意的に描くことで現代人の不条理性・不毛性の本質に迫ろうとする「不条理演劇」というジャンルの代表的な作家の一人だと言われている。
「不条理劇」は、ただわかりやすい物語を展開するのではなく、突拍子もない展開や手法を用いることで、メッセージ性を強く打ち出している。戦中〜戦後に流行した演劇の形式の一つだ。
そのイヨネスコの作品の中に『犀』という作品がある。この作品も、ある日街の人々がどんどん動物のサイに変身していってしまう、というストーリーだ。動物化していく人間を描くことで、イヨネスコは人間というものの単純性や無知を描こうとしていたのかもしれない。今回の『老獣のおたけび』は、まずこの『犀』を思い浮かべる。結論的に言えば、手法は不条理劇的でありつつ、扱うテーマは全く違ったものだった。
作家・山本タカは、今回の作品のテーマに「父と子」の関係を取り上げた。
厳格な父と、いつまでもふらふらしている(ように父には見えている)子。お互いの意見のぶつかり、譲れないもの。そして分かり合えて来なかった過去があったからこそ、今、生まれる思い。
突然父親が「象」になってしまうという、普通で言えば”ありえない”展開を通して、山本が描いたのはその関係の”繋がりの深さ”だったように思う。
その関係は、どうしようもなくめんどくさいこともある。めんどくさくてめんどくさくて、投げ出したり、誰かに押し付けてしまいたいこともある。しかし、普段意識せずとも心のどこかでは、ある意味”呪い”に似たその”繋がりは”、人間が生きていく上で必要不可欠なものなのかもしれない。山本が描きたかったのは、その繋がりが決して”きれい”なだけでなく”きたない”だけでなく、清濁併せ呑む必要があるということなのか。
劇中では、その答えは明示されていなかったように思う。
しかし考えてみれば、一概に「父と子」の関係について答えを出せてしまう方が恐ろしい。それは作品に触れた観客が、それぞれ思いを馳せるべきものなのだろう。
山本は、昨年、父になった。
共に稽古場でふざけていた頃から考えると、なんとも時というのは恐ろしく、残酷で、そして神秘的でもある。
彼自身が、その子どもとどういう関係を切り結んでいくのか。そしてそれが彼の作る物語にどのように反映されてくるのか。観客としては、とても楽しみである。
そして願わくば、
その子と「とーたん」との関係は、父権的でなく楽しい記憶で埋め尽くされたものになることを、友人の一人として願っている。