ぺるともの短歌を勝手に鑑賞する
最近はぺるともの新作の短歌を一番楽しみにしている。ぺるともは大喜利プレイヤーで、大喜利YouTubeチャンネルのこんにちパンクールの「絵文字短歌」という企画で短歌作品を発表しており、それ以来定期的に短歌をX上で発表している。
もともとぺるともの大喜利のファンだったけれど、今は純粋に歌人としてのぺるともに惹かれています。ぺるともの短歌は面白いと思うのに、わたしの周りで話題にしている人をあまりいない気がするので、勝手ながらわたしがぺるともが発表した短歌の中で特に気に入っているものを取り上げて鑑賞してみたいと思います。
2024年7月21日時点でぺるとものX上で発表されている短歌を対象に一首単位で評しています。
かなり個人的な解釈をしている箇所もあります。わたしの解釈がぺるともの短歌の正しい解釈ということではもちろんありません。
確かに林修の「今でしょ」は、ほとんどお笑い芸人のギャグと同じ軌道で動く、大きな引力があるフレーズだと思います。林修がバラエティなどに出はじめた頃は、「今でしょ」に向かって加速していく流れを何回も見た印象がありました。「いつやるの?」となったら最後、もう「今でしょ」と言うしかなくなる、その手続きはもはや詩的とすら言えるかもしれないなと思いました。
この歌は、その肝心な林修の「今でしょ」というフレーズと、滑走路から飛び立つであろう飛行機のふたつが大胆に省略されています。滑走路の名詞止めの先に、読者の中で直接描かれてていないはずなのの「今でしょ」と飛行機が像を結び、飛び立っていく光景が再生される。「今」という瞬間が空に向かって発進していく錯覚すら覚えました。「今でしょ」という使い古されたフレーズが新たな命を獲得した瞬間だと思いました。
ぺるともには、驚異的な発想を確かな技法で成立させる力があると思います。この歌もぺるともの初期の代表作としてぜひいろんな人に読まれてほしい、と強く願っています。
色んな変なことが起きている。「薬局で注意事項を読んでいるルフィ」は何なのかよくわからないし、それに投票をすることができないこともよくわからない。(わたしはワンピースに詳しくないからもしかしたら本当は元ネタが存在しているかもしれないけれど、ぺるとももワンピースに詳しくはないらしいので…)
この歌の特徴はそれぞれの変なことの位置関係にあると思いました。つまり、投票対象外まで読んだ時点で「薬局で注意事項を読んでいるルフィ」の存在を肯定するか否定するかの判断が一瞬遅れてしまう感じがあって、なんというか、読みが誘導されているイメージがあります。読者から「なんで投票できないんだよ」のツッコミから入って、「そもそお何の投票だよ」「ルフィは薬局に行かないだろ」「ルフィは注意事項とか読まないだろ」という微妙に位相の異なるツッコミが順番に入る。一つの歌の中にツッコミを入れたいポイントがこんなに細かく計算されていること自体が試みとして斬新だと思いました。
大喜利で、例えば「ないワンピースのないキャンペーン」みたいなお題に対してこの回答が出たのであれば、すべての謎が解けたようにはなるはずです。ただ、短歌というフィールドにおいて、回答だけを提示された状態では、読者側が勝手に問いを立てなければいけない、という新しい面白がり方があると思いました。
今の歌壇にとって、特に社会詠はとても大きな課題になっているので、こういう社会詠にも挑戦しているところが良いと思いました。比喩、というのは確かに強い装置で、詩に対して大きな効果を発揮している表現方法です。一方で、高良真実さんの述べている通り、詩歌の外側の世界でも詩歌の技法は簡単に使用でき、使い方によっては暴力に加担しうる構造になっています。
掲歌では、統率の取れた動き、の奥にあるシステム性に発見があると思いました。そこに比喩の可能性を感じながらも、比喩を強い意志で拒んでいるところにこの歌の意義があると思いました。統率が取れることは、57577の定型(=ルール)詩である短歌にも言えることかもしれなくて、ならば、〈喩えられるほど〉の8音はそのシステムに対するささやかな反抗と読めるのではないか、とわたしは勝手に想像しました。
〈本人〉の意思じゃなくて、〈あくび本人〉の意思、なのが面白いところだと思いました。あくびが人間の意思ではなくてあくびの意思で出てしまった、ならまだわかるけれど、〈あくび本人〉という言い方だとあくびそのものが人間になっている。一字開けも効果的で、そこの一拍であくびが出そうな感じがしました。
ぺるともの歌は比較的定型感覚が緩いものが多いけれど、この歌においてはそのゆるい韻律が効いているように思いました。この歌の59488の韻律は、本当に疲れている時の57577という感じもします。
この歌は、紙飛行機という折り紙の手順ですら、人の真似をして〈また人のせい〉にしている、ところが鋭く刺さりました。この紙飛行機が上手く飛ばせなかったら安心して〈折り方〉のせいにできる。紙を折ってしまえば折れ線がついてしまって元には戻せない。その不可逆性も、この歌の他責思考と結びつけてしまっているのだと思いました。〈また人のせい〉にしてしまうことに気づく主体の紙飛行機の行く末を見守りたいです。
ぺるともの短歌のテーマのひとつに、他者性があるとわたしは考えています。たとえば、別の日に発表した〈友達に肉が噛みきれなくて一口で食べるとこを見られた〉の他者の目線や、同じ日に発表した〈わたしには星が星にしか見えない あなたのことをあなただと思う〉の〈星〉と〈あなた〉の同一性、そして〈わたし〉以外の見方・思い方など、他者を通じて自己を思索している感じがする。自己と他者の境界線上の光景を、ぺるともの短歌は見せてくれるとわたしは勝手に思っています。
とても(現代的ではなく)現代短歌的な歌だと思いました。読み始めた瞬間、なんの番組かわからずに、勝手に〈視聴者〉にさせられている感じ。たしかにこういう番組はあって、でもどんな番組なのかまではわからない。〈視聴者の皆さんも一緒に___を予想してみてください〉は何度も聞いたはずの定型文だ。そこでこの歌は帽子を持ってきた。帽子以外のすべてに既視感があるが、帽子のみが解釈を拒んでいる。〈誰の帽子〉かずっとわからないままでいる。わたしたちは何度も繰り返してこの歌を読むことができますが、そのたびに予想することしかできない。洗練された、抜群の一首だと思いました。
どことなく、佐クマサトシ的な手つきも感じました。
あとこれは歌とはほとんど関係ないですが、帽子を当てるクイズを連想しました。〈誰の帽子〉じゃなくて〈帽子の色〉ですが。
鍵括弧が五回も出てくる短歌を初めて読んだ気がします。短歌はなんとなく一回のやりとりが限界だと勝手に思っていたんですが、そんなわたしの固定観念を見事に破壊してくれました。こんな短歌の作り方もあるんだ。
パッと見結構成立してそうな会話なんですが、読者としては一体何の2000回(3000回)なのかが一切わからないのが面白ポイントだと思いました。それはまあ、日常で2000回何かを行うことはないので間違いなく〈すごい〉ことはわかるんですが、全く回収されないまま会話の終わりまで続いていくのが好きでした。
で、よく考えてみると〈2000回〉を〈3000回〉と聞き間違えることってほとんどないよな、というところがこの歌の隠れ面白ポイントだと思いました。ボケで言っているわけでもなく、かといってまるっきり嘘というわけではなく、単純に2000と3000を間違えてしまったのが、かえって奇妙に見えました。ありそうな会話の中にある、ない展開みたいな。形式の工夫だけはない、リアルな質感の変な捻れが魅力の短歌だと思いました。
追記(2024年7月28日):
この短歌、だいぶカスコミュニケーションじゃない???
ぺるともはこういうなんでもない光景の切り取り方も巧いと思っています。学校のバザーの焼きそばパックという、誰もが見たことのあることを定型にしてしまえる言葉の感覚がすごい。〈すごい勢いでひらく〉と言い留めたのはなかなかできないと思いました。この歌の韻律がとにかく良くて、ずっと定型なのに結句〈勢いでひらく〉が8音だから、定型に合わせようとするとそこだけ自然と速く言ってしまう。それが、焼きそばのパックの開く速さのイメージにも繋がっている気がします。
どんな曲だよ。
〈薬局で注意事項を読んでいるルフィ〉の歌と構造は似ていて、そもそも「ジャイアンがスネ夫のダマのチンイツに振り込んだ時」が想像できないのに、何故かそれ専用の曲があるという風に言ったことで嘘を嘘で重ねている歌だと思いました。
とはいえ〈スネ夫のダマのチンイツ〉は意外とわかるところにあるんじゃないかなと思いました。単純にダマでチンイツを上がろうとするのがスネ夫というキャラクターである、というのもありますし、〈ダマ〉と〈チンイツ〉には〈スネ夫〉の〈スネ〉みたいな変さが共通してあると思いました。そもそもドラえもんの世界の麻雀なんておかしいけれど、ワードで説得されかけそうになる構造が面白かったです。
でも、よく考えたら元ネタの〈スネ夫が自慢話をするときに流れている曲〉も変ですよね。
ぺるともの歌の中には、大喜利の構造を維持しながら短歌に変換する、といったものがいくつかあります。具体的には上の句で大喜利のお題、下の句で大喜利の答え、という風に大喜利に引き付けて一首にしているものがあり、例えば〈なんか一言多いミステリーハンター 「当然ですがここで問題」〉や〈シーフード別れた原因第1位 「双方のボタンエビの掛け違い」〉みたいな歌があります。
この歌も、「あいさつの回数に限りがある世界」という存在しない世界のあるあるお題をベースにしていると解釈することが可能ですが、そこで〈あなたにおやすみのための節約〉という短歌的な叙情に着地させたところが良いと思いました。日常的な〈あいさつ〉から経済的な〈節約〉という言葉に接続した鮮やかさにたしかな詩情があると思います。
大喜利には短詩的要素もあり、また短詩には大喜利的な要素があると考えています。お題・回答の境界線を曖昧にすることで二つを混線・攪乱させ、新たな詩情の地平が開けるのではないかとわたしは思うし、ぺるともの短歌にはその可能性が十分あると思いました。
この歌にも〈わたしには星が星にしか見えない あなたのことをあなただと思う〉の根底にある他者性、〈あなた〉を通した自意識を見つめようとしている感覚がありました。上の句の〈あなた〉が〈僕〉に対する意識を、自らの〈視力〉に落とし込んだのがこの歌の発見だと思いました。何かを見ようとするという〈僕〉の極めて意識的な行為を、一回〈あなた〉の中の〈僕〉を通している屈折感が良いと思いました。歌の中では〈視力が良くなった〉と断定して嘘をついても良いのに、その後に〈気がするんだ〉と、歌の中ですら誤魔化さないで誠実であろうとする〈僕〉に惹かれました。
同じ日に発表した〈ひとはみな自分という名前の作品 なりたい人になれない贋作〉にも、自己と他者の境界を見つめていくうちに屈折していく主体が現れていると思います。他者になれないことは当たり前のはずなのに、それでも他者になろうとしている。自分を他者に塗り替えようとしている、そしてその抵抗の表れとして、あるいは諦めとしての意識がこの短歌なのかな、と思いました。
発想だけではなくて観察にしっかり言葉を追いつかせる短歌の作り方もできるんだなと感心しました。短歌になりそうな日常の題材の見つけ方が上手いな、というのと、こういう題材を短歌にちょうどよくまとめられているところがやっぱり初心者とは思えない力があると思いました。特に〈ライス3つ〉が、絶対3つもいらないのが良いですよね。反応の悪いディスプレイの残像感、みたいなもの手触りが言葉の上で感じられたらもっと良くなるかもしれません。この方向で言葉で洗練させて伸ばすと鈴木ジェロニモさんの短歌の質感に近づいていくような感じもします。
ぺるとものこの歌に限らず、鍵括弧つきのセリフが登場する短歌は全体的にコント的な雰囲気がある感覚がします。作中主体が話者ではなくて、観客にすり替わる感じの面白さがあるとなんとなく思っています。その中で、実景を全く描かずセリフだけで完結している歌はどこか漫才コント的な雰囲気があり、舞台に演者だけがある空間、をわたしは想像してしまう気がします。
にしても会話の内容の意味はわかるがそれ以上は何もわからない。めんつゆと麦茶を間違えた、みたいなことは容易に想像できても、〈めんつゆに限りなくを味を近づけた麦茶〉の意味が全然わからない。セリフから何一つ状況が推理できない。この会話をしている二人はコントをしているはずなのに、おそろしいことに、本当に舞台の上でただセリフを言っているようにしか思えなくて、そこが変で面白かったです。短歌の中でないものをあるように見せたら勝ち、っていうところはあると思っているので。
なんかたまに広告で見る、間違いなくつまらないゲームのはずなのに、印象に残ってしまうソシャゲの謎パズル感があります。もしかしたらこの歌の元ネタとなった特定のパズルがあるかもしれません。
言葉の展開で面白くなった歌だと思いました。正確に言えば〈難しいパズルの脳みそが削れるヤスリ〉のはずだと思いますが、あえてこの語順にすることで削れられていくのはパズルの中の脳みそではなく、自分の脳みそであると錯覚させる効果があると思いました。〈脳みそがすり減っていく〉はふつうに使えば比喩表現なのに、〈難しいパズルのヤスリ〉まで来ると急に物理的に脳が削れていく映像に変換されるのが怖かったです。パズルを解き進めると傷ついてしまう、というのはかなりSAW的な展開のような気がしました。でも、最後に〈いてててててて〉としたことで、むしろあまり痛くなさそうな気がします。削られゆく脳を仮想体験できる歌だと思いました。
大喜利的発想で成立している歌で、鸚鵡も海賊にとってはからだの一部みたいなものなのだろうか、と想像してみると結構笑えるところが良いと思いました。しかもこれが単純に体重を測っているだけじゃなくて、健康診断だから、かなり真面目に体重計に乗っている海賊のイメージがあります。
〈あいさつの回数〉の歌で先述した大喜利の構造の攪乱、の実践例としてこの歌も挙げられると思いました。大喜利として解釈するならば、〈海賊の健康診断〉というお題に対しての〈肩に乗る鸚鵡も含め体重を測る〉が答えになりますが、この歌ではお題→回答という流れを逆転し、回答→お題という流れになっています。大喜利の発想の面白さを維持しつつ、定型詩の韻律に違和感なくしっかりはめているところが、この歌の一番の良さだと思いました。大喜利の発想を活かしつつ、短歌の韻律を利用し、お題と回答の境界を曖昧にする。そんな歌をぺるともに作らせたら多分誰も勝てないんじゃないかなと本気で思っています。
上の句で心情、下の句で風景の描写、という短歌の基本構造のひとつに誠実な一首で、最後にシートベルトのあの独特の触感を〈手触り〉という言葉で持ってくるところが良いとと思いました。会いに来たことを、シートベルトの手触りと思い出せるように。
ぺるともはいま短歌のどこに面白さを感じているのか、今後ぺるともはどんな短歌をつくるのか、わたしには全く想像できませんが、それが短歌の面白いところだと思います。もし短歌を書くことを選び続けるなら、ぺるともは短歌の面白さを更新しうるとわたしは信じています。
この記事をきっかけに少しでもぺるともの短歌が読まれるようになれば、そしてぺるともが短歌を続けるモチベーションになったなら幸いです。
新しい短歌を楽しみにしています。もし歌集が出たら買います。