月島理華「ペルセウス」と新人賞と苦しさ

『歌壇』2025年2月号で第三十六回歌壇賞の受賞作・候補作、そして座談会が掲載された。その中で、つくば現代短歌研究会の月島理華の連作「ペルセウス」が候補作として三十首掲載された。父の病を患ってからの日々を綴った、自分の心にすごく残った一連だ。

(以下、引用は特筆していない限りはすべて『歌壇』2025年2月号からのものです。)

これからはおむつと車椅子が要る、と告げられて水浸しのピアノ
ペルセウス流星群の夜 父は失語という椅子に腰掛ける
サイレンが光って聴こえるまでの風、に感情が落ちてくる

月島理華「ペルセウス」
三首抄


この連作の詩情を高く評価して、東直子が◎、吉川宏志が〇をつけている。

エピソードの強さで読ませる一連はいろいろありますが、それだけではなくてそこにこの人ならではの詩情を一首毎に立てているところに、自分の感情や感覚に言葉で形を与える確かな才能を感じるんです。

東直子

父の病気というドラマを描いてはいるのですが、そこから飛躍をしていて、別の空間を生み出しているところがいいのではないか。

吉川宏志


一方で、三枝昻之と水原紫苑は「ペルセウス」の質の高さを認めつつも、〇をつけなかった。とりわけ自分が気になったのが水原紫苑の選評のコメントだ。以下、水原の「ペルセウス」評を全文引用する。

お話しを聞いて本当にいいなと思ったのですが、辛くて読めなくて。文学として価値があるとは思うのですが、とりわけ短歌の機能としてこういう歌が優れているということは昔からありますよね。私生活に沿っているだけではなくて詩としても質が高いですよね。それでも読むのが苦しいなと思ってしまって。短歌という文学はこういうところから離れることはできないのかなと思って取ることはできませんでした。

水原紫苑

水原は作品の質に対して異論はなく、詩としての質の高さを認めているが、(紙面の幅のせいかもしれないが)一首も挙げることなく、取らなかった理由として「辛くて読めなくて」「読むのが苦しい」とのみ挙げている。


このコメントに対して、わたしはXに以下のポストをした。

歌壇賞候補の月島理華「ペルセウス」に対する水原さんの「短歌という文学はこういうところから離れることはできないのかな」という評についてずっと考えてる 言ってることは理解できるけど、どうしてそんなこというの、っていう気持ちになってる

2025年1月15日(削除済みポスト)

「本当にいいなと思った」「詩としても質が高い」と言ってるのに、取れない理由として「読むのが苦しい」と言われたらどうすればいいんだろう

2025年1月15日(削除済みポスト)

でも選者の「苦しい」という気持ちも尊重されるべきだと思うから本当に難しい だからちゃんとその苦しさを座談会の場で言ったことは良いことだと思う それでも

2025年1月15日(削除済みポスト)

かなり感情的に書いてしまったせいか、一連のポストが想像以上に伸びた。「歌壇」を読んでない人に対して適切な引用がなされてない(特に「こういうところ」の部分)と感じ、また、この書き方だと水原を無責任だと批判しているように捉えかねない可能性もあったので、これらのポストを一度削除した。でも、「どうしてそんなこというの」は、わたしの率直な気持ちだった。


わたしが反射的に危惧したのは、選評の場で「短歌という文学はこういうところから離れることはできないのか」と書かれることで、新人賞に「こういうところ」の作品を出すことを躊躇する人がいるのではないかということだった。ここで水原の言う「こういうところ」というのは直接的には肉親の病を詠う短歌についてだろうと推察するが、さらに広げて「個人的な苦しみ」を詠う短歌に対して言及していると解釈されても不思議ではないと思う。作品の質を高く評価しているのにも関わらず、「ペルセウス」の必然的な苦しみの部分を受け止めきれないから点を入れられなかったのであれば、「ペルセウス」以降の「こういうところ」の作品はどれだけ質が高くても、歌壇賞にはできないのだろうか。(来年は歌壇賞の選者が水原紫苑から小島なおに変わるので直接的には影響はないかもしれないが……)

もちろん、水原が「ペルセウス」を読むことに苦しさを感じたから歌壇賞を逃した、という簡単な話ではないと思う。読むことの苦しさは、そのままプラスの評価にもなり得るからだ。座談会でそう書かれているわけではないが、東や吉川は、その苦しみが伝わるからこそ「ペルセウス」を評価し、点数を入れた可能性も十分ある。三十首載るくらいには高く評価されている作品だ。歌壇賞は、苦しみを受け入れられない賞だとはわたしは思わない。

それでも。「こういうところから離れることはできないのか」という言葉はとても切実に見えた。「ペルセウス」を読むずっと前から今まで「こういうところ」の作品をたくさん読んできて、それを評価し、選ばなければいけない選者ならではの苦悩なのだろう。しかし、どんなに苦しくても、選者である以上、その苦しさを引き受けなければいけないとわたしは思う。思ってきた、けれど、水原がはっきりと「読むのが苦しい」と言うまでは、わたしは今までその苦しさについて、ほんとうに考えたことがなかった。

そもそも短歌は感情を競う勝負ではないし、感情の強さがそのまま短歌の強さになるわけではない。読んで苦しい作品と読んで楽しい作品、どちらかが優れているとは思えない。どのような感情であっても、良い作品は良い作品であるとわたしは信じる。でも、これはあくまで空想上の「読んで苦しい作品」と「読んで楽しい作品」の話だ。生身の人間がつくった作品としてわたしの前に現れた時、そしてどちらも「良い作品」だと思う場合。どちらか一つしか選ばなければいけない場合。わたしはどちらを選ぶだろうか。


たとえば、今回の歌壇賞の受賞作「風のたまり場」と比べてどうだろうか。

わたしからオーボエを抜きとっていった「銀賞」の淡白な声色
次に吹く音の分だけ吸っている息の柱が胸までとどく
休憩を終えた鳥から飛んでゆきあそこに風があるのが見える

津島ひたち「風のたまり場」
三首抄

「風のたまり場」を吉川が◎、東が〇、そして水原が〇で取ってる。吉川と東は先ほど「ペルセウス」に選を入れているから、実質的に水原の票によって決定した……という単純な話ではないけれど、「ペルセウス」が歌壇賞になった未来はたしかにあった。

「風のたまり場」でわたしが一番好きな歌は〈次に吹く音の分だけ吸っている息の柱が胸までとどく〉だ。楽器を吸い込んだとくいの空気の質感を柱という立体で捉えているところが良かった。吹奏楽をテーマにした連作は数あれど、「風のたまり場」のどの歌にも新しい発見があって、文体のタッチの軽さが魅力的な爽やかな一連だと思う。「風のたまり場」を読んでわたしはわくわくした。

「ペルセウス」でわたしが一番好きな歌は〈これからはおむつと車椅子が要る、と告げられて水浸しのピアノ〉だ。おむつと車椅子、の持つイメージを鮮やかに水浸しのピアノに転換させることで、病の手触りを鮮明に描いている。病という現実を痛みを伴った比喩によって詩的な世界へ飛躍させるのは難しくて、言葉に対する信頼がなければできないことだと思う。そして、「ペルセウス」を読んでわたしはつらかった。

「風のたまり場」と「ペルセウス」。もし短歌の世界の未来をどちらか一人にしか託せないのなら、あなたならどちらにするだろうか。


わたしには選べない。でも、選者は選ばなければならない。苦しみながらも、選ばなければいけない。今回の歌壇賞に限れば、「ペルセウス」はたまたまその苦しさがゆえに新人賞を取れなかった、と言える側面があるかもしれない。だけど、きっとこれは「ペルセウス」に限った話ではなくて、歌壇賞の予選の段階で、あるいは歌壇賞以外のあらゆる新人賞で、その作品の苦しみの強さから、評価されなかったものがあると思う。

とりわけ新人賞の場において、作品の質の高さのみならず、今までなかったような新しいものが要求される。短歌の世界の未来が選べるならば「こういうところから離れること」を望む気持ちを、わたしはわからなくない。でも、短歌からそういうものがなくなっても、現実の世界の苦しさは離れることはない。肉親の病も、不公平な社会も、遠い国の戦争も。言い方をどれだけ変えても、苦しさは新しくならない。だから、苦しさの歌はきっとなくならない。

こんなことは、わざわざわたしが言わなくても、選者はわかってることだと思う。水原も「ペルセウス」について「昔から文学として価値がある」「短歌の機能としてこういう歌が優れている」と言っているし、おそらく過去に幾度となくこういう作品を評価して選んできたのだと思う。選者には作品の苦しみを背負う責任が生じるとはいえ、選者だって人間だから背負える苦しみには限界がある。むしろ、今までどれほどの苦しさを背負ってきたのだろうかと考えると、わたしは水原を責めることはできない。

わたしはあなたが苦しまなくて済む世界を望んでいる。でも、わたしがどんなに望んでも世界はきっとこれからも苦しいままだと思う。それならば、せめてその苦しさを、短歌にできる世界であってほしい。歌壇のためではなくて、ほかならぬあなたとわたしのために。だから、たとえその苦しさが短歌の世界で何度も繰り返されてきたことでも。

あなたはあなたの苦しさを短歌にすることを、どうか諦めないでほしい。


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