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父へ

お父さん、今日は日曜日。友達は今回の転職、転居にネガティブな発言を繰り返し涙を溜めて泣いています。2週間になりますが、僕も辛くなりつい不機嫌を現してしまいました。友達は驚き言いました、今回は突然の事に不幸としか思えず、涙が止まらない、あなたの選択は認める、だが自分にはもう少し時間が欲しい、と。
僕はその人に自分が進む方向を、今いるところでやれることはやったと思う、今度は僕を必要だというところへ行って多くの人に自分の影響を残したい、それがどんなに遠いところでも関係ない、転職がこれまでの全てを捨てることになるとは全く思わない、更に新しいことを為しに行く、と伝えました。
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 子、子夏に謂いて曰く、女(なんじ)、君子儒と為れ、小人儒と為る無かれ、と。 (よう也 第八)『論語』

 老先生が子夏に教えられた。「教養人であれ。知識人に終わるなかれ。」と。 (加地伸行訳)

 孔子はここで、教養人、即ち社会の指導者となれ、単なる知識人として終わるのでない、と言っている。
 解説の加地によると、指導者である君子には、知識以外の徳性とか、表現力とか、判断力・構想力・決断力……等々、人間性・人格性といったものがあるのであり、集団・組織を統率するためにはそうした力量や人望といった力が必要である、とある。
 目指すべきは、まさにそういうことだと思う。僕はここにいる限り集団や組織の方向性の決定に関われない、ただひたすら組織や集団のその都度の求めに応じて良い仕事をするだけしか出来ない。そして、今居る組織は綻びだしていて、指導者はその綻びの正体を認識することなく、間違った方向へ向いている。しかも僕はこの組織に搾取されて始めていて、僕の努力は上部の安寧だ。僕はこれまでにこの組織に十分尽くした。冒頭の孔子の教えはここに留まってはならないということだろう。