自由と自殺についての考察
人間の本質は自由と定義される。人間とは自由な存在である。それは目の前の現実を超える想像力である。それは未来を予測する想像力である。一方で人間は死すべき存在である。そうならば、人間が自身の死を想像し、考えることはそもそも人間として本質的な思考である。従って、ヒトが死を思うことは極めて本来的な事であり、誰も何事も妨げる事は出来ない。
すると、ヒトが自身の生を終わらせること、即ち自殺を考えるのは自身の死を想像する事の一つのバリエーションであり、有り得べき事である。翻って、ヒトが自殺を考えるのは、その己の自由の現れに過ぎない。
所で、ヒトが自殺を実行することは、即ち既遂することは別の次元である。それは、殺人を想像出来るのと実行する事の間に果てしない距離が横たわっている事と同じである。ただ、ヒトは人間である基本的能力から自殺を考えざるを得ないし、誰も禁止出来ないという事に過ぎない。
このように毎日多くのヒトが自殺を選んでいることの不思議と恐れ。ヒトは自身の自由を表現するために、自己の存在に終止符を打つ事を選ぶとは!僕はそこに、自由ではなく彷徨ったトートロジーを観るのだ。自由であるがゆえに自由を選び実行してしまうことの罠。
だから、実は究極の自由を実現する事の中に、実は自由は無い。それに気付かなければならない。自由とはある意味宙ぶらりんな状態であり、死を決定した時点でそれは既に自身の本質たる自由を捨てる事に他ならない、即ち、不自由な存在となるのだ。