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(母性とか母権とかの残酷さ)

 ティルダ・スゥイントンのことはデレク・ジャーマンの頃から好きだし、
 ジュリアン・ムーアはジョディ・フォスターよりも好きだし(ジョナサン・デミよりもリドリー・スコットのほうが好きだし)、
 この二人が共演するとなれば、観たいと思う、権威のある映画祭で賞をとろうがとるまいが関係なく、あるいはどんなテーマとかネタとかによるものであろうとも。ただし監督のペドロ・アルモドバルについては、昔々にいくつかの作品を観たものの、今では大家になっているようだが、たいした興味はない。母性が、あるいは母権が、初めて観た時から鼻についてならない、臭い過ぎるくらいだ。それでは大家になるのも当然だろう。もっともおれにとっての映画の醍醐味とは、映画がどれくらい監督から引き離されるかということ、それによって映画が文学的な作家性からどれだけ引き離されるかということ、映画がどれだけ自由になるかということ、それを最も期待できるところが、映画という作品における、あくまで表出性として、役者の力量、存在感とか演技力とか、それをこの二人の女優に期待したいところなのだ。

 映画は、もっぱら観なくなっている。いろいろな理由はある。昔々にあなたと良く映画館に通うようだった頃に比べて残された時間が短くなっているために、映画のための時間を他に、もっと根源的に書くことと読むこととに回したくなった。あるいは、おれの人生において、おれの周囲において、結局、映画関係者とか映画的人間とか、ただただ映画が好きであるという人間(それがいったいどういうことなのか、映画が好きでいられるとはどういうことなのか)にしても、どれもこれもろくなもんじゃなかった(テーマとかネタとかの亡者のようだった)。だからあなたとは、久しぶりに、映画館に観に行きたいと切実に思う、あなたとならば、一緒に映画を観ていて楽しかった、心地よかった、そうではない時も、そんなこともあったにせよ。これから時々にでも行けるようになりたいと思う。その前に、プラネタリウムとか、美術館とか,久しぶりの映画のための手慣らしとして、目慣らしとして、リハビリもいいだろう。

 酒の類も、もっぱら飲まなくなっている。何か、眠りたくても眠れなくなるような嫌なことがあってとか、嫌なことでなくても興奮してしまって緊張してしまってとか、そのために眠りにつくために飲むくらいのことになっていた、が、久しぶりに、最近、飲むようになった。仕事での友人と、時々だが外で、店で、軽く飲んで軽く酔って、いい気分を味わえるようになった。飲まないでいると、そんなことでいい気分になっている連中を見下すようなことになってもいたのだが、おれにはそんな時間も余裕もないと信じていられたのだが、最近になってそうでもなくなったようだ。その友人のおかげとしておいてもいいだろう。その友人と何かと話をするようになったのは、仕事のこと以外でだと、映画ということになるようだ。ところが好みは根本的に違う。一緒に酒を飲みには行っても、一緒に映画館に行くことはできない。彼の最近の何よりもの注目は、ピエロによるホラーの、アメリカが嘔吐したとか何とかというもの。おれはそういうのはつきあえない。おれが嘔吐するくらいに感じた映画というのは、観る前からだいたいわかっていたとはいうものの、いざ観てみてやはりそうなった、つきあいきれなかった、ピエロ・パオロ・パゾリーニの遺作くらいだろう。パゾリーニの他の作品はみんな好きだと言ってもいいのだが。たとえば、パゾリーニは母性とか母権とかの残酷さをよくわかっているから。パゾリーニの作品を、あなたとは何も観た記憶がない。いつか、どれか、観に行きたいと切実に思っている、友よ、愛よ。


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