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(こころに、ところは、ない)

 おれが書いているところ、
 と書いてみて、その文において、二つの意味が考えられるだろう。一つは、おれが書いている場所という意味。ところ、が、場所、ということ。一つは、おれが書いている最中、只中、過程、などという意味。一つめについては、ところ、所、場所、と文字通りに、意味として、わかりやすいだろう。しかし二つめについては、似た言葉を考えてしまう。ところに似た言葉として、こころ。

 こころに、ところは、ない。
 そう考えてもいい。あるいは、こころというものからして、ところのようにあるものではない。しかし何かをしている、無心なくらいに、身も心もとろろのように蕩けるくらいに何かをしている、その時にはじめて、こころはありうるのではないだろうか、こころにところがあるというくらいに。

 ところで(あるいは、ところが、この二つの接続詞もこころで、あるいはこころが、と考えることもできるだろう。話をしていても、言葉を口にしていても、心では、あるいは心が、どうか、というところ)、ところてんについて調べていてわかったこととして、〈古くは正倉院の書物中に心天と記されていることから奈良時代にはすでにこころてんまたはところてんと呼ばれていたようである。 もともとは「凝海藻」と表記し「こるもは」と読ませた。「こる」とは「凝る」すなわち固まるの意味であり、「もは」とは藻葉であり、藻の異称である。 日本の文書に心太の読み方が初めて現れるのは、平安初期の『和名類聚抄』である。以下に引用する:/【大凝菜 本朝式 凝海藻 古留毛波 俗用心太二字、云古古呂布止】 (現代語訳:中国語で「大凝菜」と書き、日本の公式文書では凝海藻と書く。読み方は「こるもは」だが、俗に「心太」の二字を用い、こころふとと読む。)/もともとは万葉仮名四字で古留毛波と書くのが制式だが、その煩雑さが嫌われて心太と書いたものであろう。これが見た目の字面に引っ張られてココロフトと読まれるようになった。 室町時代の歌集にココロフトとココロテイが両方出てくるものが見られ、このことからココロテイはココロフテエから転訛したものである〉
 ついでにとろろ、とろろ芋とか、山芋とか長芋とかによる、とろろ、それについても調べてみたが、語源はわからなかった、というよりもわかりすぎているということになるのかもしれない、とろとろにとろけるような、として。


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