「ただいま魔力暴走中!」天才魔導剣士ヴィクター/血塗られた祝宴篇 第一章①
第一章 魔獣事件
その事件はヴィクターが十二歳の頃、王宮内の広大な庭園の小道を歩いている時に起きた。
「何の声だろう」
ヴィクターは立ち止まり、耳を澄ませた。先ほど外套の裾をかすかに揺らして吹き過ぎた秋風の中に、獣の吠声と複数の人間の悲鳴を聞いた気がした。剣術の厳しい修行で磨かれたヴィクターの鋭敏な感覚が察知した危険の兆し。
風は三十メートルほど先にある森の中を抜けて来た。
ヴィクターは赤い髪を掻き上げると、落ち葉に覆われた小道を、なるべく音を立てないよう速足で進んだ。
するとまたしても獣の低い唸り声が聞こえてきた。その声には猛々しい威嚇の意思が混じっている。
「急がないと。獣が誰かを襲おうとしている」
ヴィクターは腰の剣を抜くと走り出した。
森に飛び込んだヴィクターは、まもなく直径三十メートルほどの広場に出た。そこでヴィクターが目にしたのは、広場の真ん中で向かい合う大型の獣と男女二人の子供だった。
子供は高位の貴族の子弟だと思われる上等な衣装を着ていた。年齢はどちらもヴィクターと同じぐらい。男の子は尻もちをついたように地面にへたり込んでおり、その男の子と獣の間に両手を広げて女の子が立ち塞がっている。
獣はネコ科の大型肉食獣。四つ足なのに体長が大人の背ほどもある漆黒の巨獣で、二人の子供を冷たく見下ろしていた。その圧倒的な力を秘めた身体からは魔力の波動が伝わってくる。
「魔獣か、やっかいだな」ヴィクターは軽く舌打ちをした。
魔獣は突然現れたヴィクターに目を向けると、鋭く長い牙を誇示するように口を大きく開き「邪魔をするな」とばかりに吠えた。空気が不気味に震えた。すると恐怖に心が折れたのか、男の子が泣き出した。
「アレクシス、しっかりしなさい。絶対に私が守ってあげるから」
女の子が振り返ってアレクシスと呼ばれた男の子に声をかけた。しかし気丈な言葉を吐いてはいたが、女の子も顔色は真っ青だった。
よく見れば魔獣の周囲には、切り刻まれ引き裂かれて血まみれになった人間の遺体が五、六体転がっていた。ヴィクターはこの惨状の中でも正気を保っている女の子の心の強さに感心した。
魔獣はふたたび二人の方に目を向けると、力を溜めるように身体を低くした。毛が逆立っている様子がヴィクターにも見えた。魔獣とヴィクターとの距離はまだ十五メートルはある。今、魔獣が二人に襲いかかったら阻止する術はない。
「そのまま動かないで」
ヴィクターは叫ぶと足元に落ちていた林檎のような果実を拾い上げ、魔獣に向かって投げた。果実は見事に魔獣の腹に命中した。もちろん大したダメージは与えられない。しかし注意を逸らすことには成功したようだった。魔獣は身がすくむような甲高く恐ろしい声を上げるとヴィクターに向かって駆け出した。
ヴィクターは両手で剣を持つと、左足を半歩引き、剣先を魔獣に向けて構えた。緊張感で身体は小刻みに震えた。
魔獣はあっという間にヴィクターとの距離を詰め、五メートルほど手前まで来ると高く跳躍した。そして落下しつつ右前足を振り上げ、鋭い爪でヴィクターの顔を引き裂こうとした。ヴィクターは前転して魔獣の一撃をかわした。魔獣はヴィクターを飛び越して着地した。すぐに振り返ろうとする魔獣に向かって、今度は素早く体勢を立て直したヴィクターが突っ込んで行った。
下から斬り上げるように魔獣の腹を狙ったヴィクターだったが、魔獣も反応が早く、飛び下がって刃を避けた。ヴィクターは魔獣に浅い傷しかつけられなかった。それでも斬られたと感じた魔獣は怒りに目を光らせると、恐ろしい勢いでヴィクターに飛びかかって来た。
ヴィクターはギリギリで身体を開いて魔獣をかわしざま、追いかけるように後ろから剣を振り下ろした。今度は先ほどより深く斬りつけた手ごたえがあった。魔獣は五メートルほど行きすぎたところで動きを止めた。斬り裂かれた背中から血が噴き出していた。痛みもあるらしく魔獣は低い唸り声を上げながら、ゆっくり体を反転させた。
魔獣は目を細めてヴィクターを睨んだ。不思議なことにその目からは先ほどまでの怒りが消えていた。力まかせに戦ってもヴィクターを倒すことはできないと感じているのかもしれない。しかしひるんだ様子は見えなかった。
魔獣は普通の獣とは違って賢い生き物だった。しかも危険を感じると魔力を使った攻撃を仕掛けてくる。その攻撃は魔導士の魔法ほど洗練されたものではないが、単なる物理攻撃とは異なるダメージを相手に与える。
「魔力攻撃を仕掛けてくるつもりか」
ヴィクターは身体がこわばるのを感じた。
魔力を使った攻撃には三つの対処法がある。
ひとつ目は防御魔法によりその攻撃を無効化するか弾き返して防ぐこと。ふたつ目は相手を上回る攻撃魔法を発動して反撃すること。みっつ目はとにかく攻撃をかわすこと。
ヴィクターは同世代の子供たちと比べて魔力制御が不得手だった。いや、できないと言ってもよかった。そして魔力制御ができないということは、実質的に魔法が使えないということだった。
剣技に関しては幼いながら天才の誉れ高いヴィクターであったが、魔法に関しては全くの落ちこぼれだった。それが名高い魔導剣士の一族、ブラックソーン家に生まれたヴィクターの強烈なコンプレックスであり、決して心を去ることのないトラウマであった。
魔法が使えない以上、かわす以外の対処法はない。だが相手が何を仕掛けてくるかわからない状況だと確実にかわせる自信はなかった。
ヴィクターは深呼吸をすると剣を上段に構えた。あたかも相手の魔力攻撃を切り伏せようとするかのように。
魔獣はいったん屈みこむと、身体に溜めこんだ魔力を一気に放出するように鋭く息を吐いた。次の瞬間、ヴィクターは全身を覆うほど巨大で弾力性のある何かに襲われ、後ろに跳ね飛ばされた。背中からまともに大木に激突し、その衝撃で意識が飛びそうになった。たぶん、あばら骨にひびが入っていた。
魔獣が放ったのはエナフィアと呼ばれる、ごく初歩的な、魔法とも呼べないほどの魔法だった。つまり魔力をそのまま固めて相手にぶつけてきたのだった。しかしそんな初歩的な魔法ですらヴィクターはかわせなかった。「自分には魔法が使えない」という思い込みが、魔力攻撃を感知する能力を鈍らせていた。
ヴィクターは悔しくて泣きそうになった。
「ちくしょう。僕だって魔法を使えたら」
魔獣は勝ち誇ったかのようにゆっくりとヴィクターに近づいて来た。そして再び屈みこむと、もう一度エナフィアを放とうとした。
ヴィクターはダメージが大きく、まともに動くことができなかった。剣も振るえない。「このままではやられる」と思ったヴィクターは、自信も勝算もなかったが、制御を考えず魔法を放ってみようと思った。「何もしないまま死んでたまるか」という思いだけだった。
魔獣は口を開けて鋭く息を吐いた。それに合わせ、ヴィクターはイメージで光の盾を作って魔獣にぶつけた。それはリフレクトゥスという、これもまた初歩的な防御魔法だった。
魔法を半年も学んだ者であれば、リフレクトゥスは普通に使えるものだが、ヴィクターはこれまで何度指導されても成功したことがなかった。案の定、この時も光の盾は暴走して急速に拡大し、最後に爆発して弾け飛んだ。
その一部がヴィクターを直撃し、今度こそヴィクターは気を失った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?