〇〇からの卒業
今日、jet全日本エレクトーン指導者協会を
退会しました。
私としては、
「ヤマハからの卒業」という言葉が
しっくりくる。
4歳の時、
初めてのエレクトーンの先生は、
銀座支部のO先生
(のちにごご結婚されてW先生に)
ピアノの先生はヤマハの先生とは限らず、
様々な先生との出会いがあったので、
私自身ヤマハに重点を置いた人生ではなかったけど、
私は、O先生が大好きだった。
憧れの大人の女性でした。
小学5,6年生の頃になると、
発表会の時には、先生がしていたブレスレットを真似してみた。
大人になり、指導者となった時、
O先生が昔していた様に、
私も時計が付いたネックレスをした。
憧れだったO先生に少し近付いた気がして
高揚した。
私は今までの人生の中で、
憧れて真似までした女性は
O先生たった一人だけである。
私は自己紹介にも書いた通り、
沢山の職業をしていた為、
先生業にあまり重点を置いていない時期もあった。
ベーチェット病という難病が発症し、
1995年の2つの大きな災害をきっかけに
パニック障害にもなり、
家から一歩も外へ出れなくなった時もあった。
沢山の職業を経験してしまった理由は、
この病気との闘いからもきているのだけど、
また別の機会に書いてみようかな、
と思います。
病を機に都心を離れ、
地方で子育てをしながら
小さな範囲でのコミュニティの中で
音楽教室の指導に励み、
ささやかな幸せを感じたりもしていましたが、
心の奥底には、
”病に負けた”
という無念さが広がり続けていた。
そんな年月が流れる中、
jet全日本エレクトーン指導者協会の
担当のSさんは、
私が地方へ引っ込んでからも、
10年以上もの間、
ずっとずっと便りを私に届け続けてくれたのでした。
その便りにどれだけ励まされてきた事か
なので、9年前に、
私を支部の講師として呼んでくれ時は、
行きたい!
と思った。
全く電車に乗れなかったのだけれど、
行こう!
と決めたその日から、
汗だくになりながら
一駅ずつ頑張って乗れるように練習を始めた。
晴れてカムバックできたその日の嬉しさは
忘れられません。
長年ご無沙汰していた先生仲間の方々も、
初めてお会いする新しい先生仲間の方々も
凄く温かく受け入れてくれた。
この日の事が嬉しくて嬉しくて、
私は、その後、沢山の事を頑張った。
支部で私が出来ることは
何でも貢献しようと思ったし、
私自身も、心底、病気に勝って
「元気になりたい!!」
と思ったし、
新たな夢や願望も生まれてきた。
その後は、
本当にびっくりするくらい元気になり、
以前の私の行動力も戻り始め、
生活も仕事も人間関係もどんどん広がった。
しかし
ここ数年、私の中で変化が生まれてきた。
仕事の在り方や、仕事とプライベートのバランス等、
私の人生の後半戦
別の生き方を試してみたい
そのため、
様々な方面での断捨離が始まるのだけど
まさかまさか
絶対に一生居続けるであろう、
子供の頃からの
私にとっての「ホーム」である
『ヤマハ』から、
離れようとしている自分がいる
うそでしょ?
こんな事考えるなんて
と、思いながら、
3年くらいの年月が経ってしまった。
昨年のコロナの時期は
本当によく考える良いきっかとなった。
今でも親しい仲間は沢山いるし、
良い思い出も沢山
感謝なんて言葉が軽く思えてしまうくらい
感謝でいっぱい
もっとピッタリの言葉がないかしら
でも、例えコロナが落ち着いた時が
来たとしても、
私は、
jet指導者会の活動は
もうしないだろうな、
と明確になったので
退会する事を決めました。
これは、私にとっては「卒業」です。
そして、
子供の頃から憧れていた
O先生からの卒業でもあります。
jet支部の現在の担当のHさんからは、
とても心に染みるメッセージを
いただきました。
『たとえご退会されたとしても、
島田先生は当jet支部の永久欠番!!
または名誉会員みたいな存在です!!』
「永久欠番」なんて(´;ω;`)ウゥゥ
泣けてくるなー
人生後半戦、
何が起きても立ち上がれそうなほどの
大きなエールを頂きました。