新宿と南青山

新宿が好きだ。地元で一浪したけど、全部落ちて、行くところがなかったからいっそのこと、留学しようと思った。だから、東京に出てきて、UCLAの日本校みたいなところに入って、留学の準備をしていた。

新宿三丁目の先に、その語学学校があった。今思えばなんで西武池袋線にしたのか、よくわからないけど、大泉学園に部屋を借りて、新宿に通っていた。靖国通りにあるモスを曲がって、細い路地を進む。同じクラスになった東京出身の2人の女の子と仲良くなって、毎日遊ぶようになった。

ティッシュ配りのバイトをしながら、毎日英語で授業を受けていた。英語は得意だったから、どうってこともなかったし、その時は本気で留学しようと思っていた。

そのうち、みんなで南青山にある、blueというクラブに通うようになった。クラブジャズが流行りはじめた頃で、U.F.Oが作ったクラブだった。そこで毎週金曜日に回してるJazzBrothersの竹花さんのDJにやられて、毎週、22時くらいから朝まで、ずっと踊ってた。

そのうち、自分たちが常連さんになっていて、クラブで仲良くなった友達が増えた。友達はblueの店員さんと付き合いはじめて、毎週ゲストで入れるようになって、わたしたちにとって、blueがホームになった。

わたしがティッシュ配りのバイトをしてたのは、西新宿駅の辺り。元気にティッシュを配っていたら、一度、保険の営業のおばちゃんにスカウトされた。その当時は、ティッシュ配りの時給もそれなりに良くて、1日働けば、一人暮らしには充分な生活費を稼ぐことができたのだ。

わたしと友達は、すっかり竹花さんの追っかけになっていて、金曜日だけじゃ物足りなくて、毎日のようにクラブ通いをするようになっていた。

blueに行く時は、必ず渋谷の交番前で待ち合わせをして、歩いて骨董通りまで向かった。いつものように、渋谷で目の前の流れる人たちを眺めていたとき、ふと、やっぱり、日本の大学に行こう、と思い直した。秋のことだった。

それから、わたしはクラブ通いをすっかり辞めて、再び受験勉強に励んだ。英語と小論文は得意だったから、SFCを受けることにした。国際政治が勉強できるのも選んだ理由の一つだった。

一緒にクラブ通いをしてた親友が、試験に向けてお守りをくれた。わたしは当日、祈るようにそのお守りを握って試験に臨んだ。SFCしか受けなかったけど、無事に受かっていた。

春になり、友達の一人はニューヨークの大学に留学した。わたしは藤沢に引っ越して、そして、親友は、日本で浪人することを決めた。

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