hiromincle

たぶん、昔話ばかりになると思います。

hiromincle

たぶん、昔話ばかりになると思います。

最近の記事

  • 固定された記事

帰ってきたhiromincle

こんばんは。ひろみんくるです。はてなの日記がなくなっちゃって、しばらくはblogを書くことから離れてたんですけど、noteで日記を再開することにしました。ほんとに久しぶり。昔はなんであんなに熱にうなされたように毎日blogを書いてたんだか、本当に不思議だったけど、きっと毎日書きたいことがありすぎて、たまらなかったんだろうと思います。 いろんなことがありすぎた20代から30代を駆け抜けて、もう40代、も半ばに差し掛かってしまった。早いなー。でも、身体も心もようやく健康になって

    • ファザコンなキミ

      Kさんは、いつも、わたしの男性にまつわる話を聞きたがった。わたしの話を面白そうに聞きながら、カウンセラーのようにわたしを分析しては、最終的に毎回、「キミは本当にファザコンだね」と言う。 Yさんという、20歳以上も年上の編集者と付き合っていること、13歳離れてるKさんと仲良くしてること、年下の男友達から何度も告白されても、絶対に付き合わないって、断りつづけてること、最近出会った年上のCMプランナーとカフェ巡りをしていること。それから、たまには、女の子の話もした。 Yさんの事

      • 六本木デート

        「キミと会うと、曲のインスピレーションが降りてくるんだよね」と、Kさんからのメールには、そう書いてあった。 伊藤くんが大学で作っていた雑誌で、彼らのバンドを取り上げてから、そのバンドの音楽とライブの素晴らしさがどんどん噂になり、彼らはちょっとずつ、メディアに出るようになっていった。 そんなある日、彼らのデビューアルバムのジャケットを伊藤くんがデザインすることになり、わたしと伊藤くんと共通の友達の3人で、レコーディングスタジオに遊びに行くことになった。Kさんと事前に何度かメ

        • Thursday Afternoon

          2000年にSFCを卒業したわたしは、希望の大手マスコミは全滅で、かろうじて、大学の先輩がやっていたベンチャー企業に拾ってもらうのが精一杯だった。その会社は、IT系のニュースメディアを運営していて、わたしは新米記者として、毎日赤坂の会社から近くのホテルで行われるプレス発表会に足を運び、記事を書くという日々を過ごしていた。 小さい会社ながらも、記者という希望の職につけたわたしは、毎日プレス発表会に通う日々を心から楽しんでいた。 大学卒業とともに伊藤くんと別れたわたしは、伊藤

        • 固定された記事

        帰ってきたhiromincle

          ブリットポップブーム

          ドーハの悲劇を家でリアルタイムで観ていた93年の秋、高校生だったわたしは、サッカーのおかげで、すっかり夜更かしする習慣が身についてしまっていた。そんなある日のこと、いつものように深夜までTVを観てると、あるバンドのライブ映像が流れてきて、わたしはその映像にすっかり目を奪われた。 それは、Suedeのブレッドアンダーソンが、「The Drowners」をくねくね腰を揺らしながら歌っている、ライブ映像だった。白いシャツを胸まで空けた、ワンレンボブのキレイな男性に、世の中にこんな

          ブリットポップブーム

          Phoenixとorkut

          昔、mixiが一般的になるちょっと前に、日本のクリエイターの人達がこぞってやっていたソーシャルネットワーキングサービスにOrkut(オルカット)というアメリカのサービスがあって、開設は2003年か2004年くらいだったと思うけど、その頃、日本人もまあまあいて、みんな英語でプロフィールを書いたり、メッセージのやり取りをしたりして、日本人も外人も分け隔てなく、交流していた。 その中に、All Aboutでテクノポップのガイドをしてる四方さんという方がいて(わたしは尊敬の意を込め

          Phoenixとorkut

          テーマ曲

          わたしの中で、この曲を聴くと素の自分に戻れるという曲が、その時々に何曲かあって、誰に聞かれるわけでもないけど、勝手にそれを自分のテーマ曲として掲げていた。大好き、というのはもちろんなんだけど、どちらかというと、しっくりくる、というか、自分が素になれる曲たちだ。 南青山のblueに通っていたときは、JazzbrothersのSpontaneityという曲がそれだったし、高校生のときは、Tenorio Jr.のNebulosaというピアノの曲だった。 オースティンパワーズのサ

          テーマ曲

          Hôtel Costesとスケッチショウ

          大学に入る前に南青山のblueに通ってた、クラブジャズ好きのわたしにとって、『Hôtel Costes』シリーズは、本当に大好きな、どハマりしたアルバムだった。日本で本格的に紹介されたのは、2001年に発表された4以降のシリーズで、個人的には5、6、7、8、9あたりが、本当にツボすぎて、ステファンポンポニャック先生、最高としか言いようがない。ブラボー! 特に6の最初の曲、In the black night のピアノの旋律を聴くだけで、一瞬にして2003年に戻れる。2003

          Hôtel Costesとスケッチショウ

          山下達郎

          はてなで音楽blogをやっていたころ、毎日のようにコメントをし合う仲良しのブロガーさんが、何人かいた。彼らと音楽の情報をやり取りしたり、時にはみんなに好きなアルバムや小説ベスト5を挙げてもらう、なんて企画も立ち上げていた。 その中の一人に、山下達郎のビッグファンのおじさんがいて、その人が、いろいろと山下達郎の曲を教えてくれた。小学生の時にビートルズを知り、中学ではTMにどハマりして、高校卒業と同時にブリットポップの波に乗り、そのあとはクラブジャズ、エレクトロニカと、どちらか

          山下達郎

          村上春樹とカポーティ

          大学で伊藤くんに出会うまで、わたしは小説というものをあまり知らない青春時代を過ごしてきた。小さい頃から読者はもちろん好きで、小学生の時から文章を書くことも得意だったけど、高校生に入ってから、もっぱら、国際政治に関する本を読むようになっていたからだ。 筑紫哲也氏のニュース23を見て、ジャーナリストに憧れるようになった頃、猪口邦子先生の「戦争と平和」という本を読んだ。猪口先生のいる上智大学を受けようと思ったくらい影響を受けて、そこからわたしはユーゴスラビア内戦の原因にひどく興味

          村上春樹とカポーティ

          Lound

          学食にサウンドシステムを入れて、クラブ化するイベントを、わたし達は、Loundと名付けた。伊藤くんがフライヤーとポスターをデザインして、みんなに配った。チケットが予想以上に売れて、最初から、Loundは大成功だった。イベントをやる度に、みんなに次はいつやるの?と聞かれて、Loundは、キャンパス内での一大イベントになっていった。 Loundでいつも回してくれた一個先輩のDJたちは、今でもCrystal(現在はXTAL)やpeechboyとして活躍してる。みんながどんどん上手

          ヴィヴィアンの指輪

          伊藤くんとは、大学1年の夏くらいから卒業するまで、ずっと付き合っていた。たまにわたしが不機嫌になってケンカすることもあったけど、互いに刺激を与えあえる存在で、仲は良かった。あるとき、伊藤くんが、どこからか、ゴソゴソと指輪を取り出して渡してくれた。ヴィヴィアンの指輪だった。ベッドの上で飛び上がるくらい嬉しくなって、お揃いで、ずっと左手の中指にはめていた。 わたしは大学に入ってからも、たまにblueに通ってたし、マニアックラブやイエローにも行ってたし、ダンスミュージックで踊るこ

          ヴィヴィアンの指輪

          カットモデルとCUTiE

          大学に入ったとき、わたしは現役の子たちと2歳離れていた。地元で一年浪人して、東京に出てきて、留学準備をしながら、バイトとクラブ通いに明け暮れ、結局留学を辞めて日本の大学に入ってきたからだ。 南青山のblueに通ってた頃、Shimaの美容師さんに声を掛けられて、カットモデルをしていた。ぶんぶん、という変わった名前の美容師さんだった。彼に大学受かったよ、と報告すると、「おめでとうー!じゃあ、お祝いに坊主にしてもいい?」と言われて、赤毛の坊主頭にされた。 オシャレで優しい美容師

          カットモデルとCUTiE

          新宿と南青山

          新宿が好きだ。地元で一浪したけど、全部落ちて、行くところがなかったからいっそのこと、留学しようと思った。だから、東京に出てきて、UCLAの日本校みたいなところに入って、留学の準備をしていた。 新宿三丁目の先に、その語学学校があった。今思えばなんで西武池袋線にしたのか、よくわからないけど、大泉学園に部屋を借りて、新宿に通っていた。靖国通りにあるモスを曲がって、細い路地を進む。同じクラスになった東京出身の2人の女の子と仲良くなって、毎日遊ぶようになった。 ティッシュ配りのバイ

          新宿と南青山

          ヒロ兄

          ヒロ兄とどうやって知り合ったのか、初対面の時のことを、今となっては、全然覚えていない。クマさんみたいな大きな身体で、優しい笑みをたたえ、少し寂しそうに話す。 ヒロ兄は当時奥沢に住んでいて、伊藤くんやその友達が、よく彼の自宅に遊びに行ってたみたいだった。自由が丘の南口にあるメンタルクリニックを紹介され、そこに結構長いこと通った。主治医のことをわたしはよっしーと呼んでいた。 メンタルクリニックに行った日は、必ずヒロ兄と奥沢でご飯を食べた。大竹まことのお兄さんがやっているカフェ

          2003年11月

          そのデザイン事務所は社長のアートディレクターに、秘書的な総務の子と、デザイナーさんが3人、システムやさんが1人とわたしという、めちゃ小さな個人事務所だったけど、最初は羽根木の森にオフィスを構えてて、社長は黒しか着ないし、事務所のタオルやスリッパは全部Y’sだったし、とにかくオシャレって感じが満載だった。社長はもちろんバブル世代で、いかにもなプレゼンで、それなりに有名なアートディレクターだったらしく、わたしを採用したのは、彼がグラフィックからWebに力を入れ始めていた時だった。