見出し画像

夢のあとさき

4年前の1月2日。iPhoneのメモ帳にこんな内容のことを書いていた。

"まだお正月なのにあんまり気分やムードがない。どうやら、「お正月」を感じるのは実質、年末12月29 日から31日の間と1月 1 日の朝までなんじゃないか。
1日の朝、お節を食べて、届いた年賀状を宛名ごとにわけて、それで正月はなんか終わりのような気がする。
と、どうでもいいことなのだけど初夢ばかりは気になる。"
と、雑な感じで1月2日のお正月を迎えているようだ。夢の話を大ぴっらにしていい空気なので初夢について書いている。

"自宅に犬のような猫のような動物を飼っている。
隣家の人がうちに現れて私に「ちょっとうちに来てくれる?」と頼むので行こうとするとその犬?が幼い子供がパニックを起こすように暴れるので抱き上げて、「どうしたの?」と聞くと「帰ってくる?帰ってくる?」と不安げに聞くので「じゃ、このまま君を抱っこしたまま行こうかね。君もね、ここに居られない、とか考えて出ていったりしたらダメだからね。ここがお家だからね」と言いながら温かい気持ちに溢れた気持ちで目覚めた。"

その後、一丁前に夢の解釈をしていた。解釈はこう。

"解釈をするまでもなく、私は自分自身に対して此処に居ていいんだからね、と言っているのだろう。
昨日のプレ初夢にしても初夢にしても夢の中の時間の経過がごく短い。これは私にしてはめずらしいこと。何を意味してるのか、意味がそもそもそこにあるのかわからないがなんか幸先良さそうだなと思うことにします。"

とさして深く考察はしてない模様。まあ初夢だからポジティブな内容であって欲しい気持ちだったのだろう。次はお正月で皆が帰省していることが伺えることを書いていた。思い出と共に。

"話変わって。
帰省した家族が揃っていると思い出話にはこと欠かなくて、今日は姉たちと姪と私たち姉妹の子供の頃の話になった。雑な時代、雑な家で育った証のような話である。
姪は最近アルバイトのために弁当を作っていてインスタ映えするキャラ弁を作っている。手先が器用なのでなかなかに可愛いものを作っている。と、いう話から。私のお弁当の思い出を語った。

小学1年生、初めての遠足の時のお弁当が衝撃的だった。
そのお弁当は実母が作ってくれたのだが、新聞紙で包まれていたのだ。
勿論、英字新聞とかではない。フツーの新聞紙だ。しかも弁当箱が折箱で駅弁みたいなサイズで、他のお友達と何か違うぞ、ということにその時ヒヤリとしたものを感じた。

そもそもだ。
みんなリックサックなのに私だけナップサック。10歳年上の姉のお下がりなのだが、学校から公園への道すがらお友達のはみんな、キティちゃんだったりその頃のアニメの柄なのに私のは赤い無地に victoryと書かれていた。ちょっと足の速そうな字体で。

ショルダーベルトではなく、肩掛け部分のところが黒い紐で、なんか違うことだけを感じ取っていたが、お弁当の段階になってお友達とは全く様相が違うことに気づいて焦りはじめた。レジャーシートが私のはアニメやチェック柄ではなく、仕出しや鉢盛を包むよくある水玉の正方形のビニールで、そんなのは私だけだったうえに、新聞紙に包まれた折箱だ。(子供の弁当なのに俵型おにぎりが 6個も入っていたのも謎。)

お友達もざわざわしてて「ひろみちゃんのお弁当、なんで新聞紙?…ハンカチないの?」と不安げに尋ねられてしまった。その様子を見ていた先生が「ひろみちゃんのいいなー、お弁当箱捨てられるから帰りはリック軽くなるね!お母さんが考えてくれたんだね!」と神フォローをしてくれて、お友達もそっか!ひろみちゃんいいなぁ、と顔が晴れていた。私の疑問は一向に晴れなかったが。

その事を話すと、50歳半ばの姉たちは決まって爆笑する。「私らのときはみんなそうだったけど、あんたとは 10年違うからね」と、10年の間に子育て方法や世間が変わったという実母の不利は認めるのだけど、「でも確かに竹輪とカマボコの醤油で煮たのとか全部茶色いから、うちらの時代でも若干厳しかった。」となる。

私がそれにかぶせて、
「いや、食材はむしろ豪華だったのかもしれない、殻を剥かないまの海老の煮つけ入ってた。剥くの大変だったよ。冬の弁当にうなぎ入ってて冷えて固まってるから友達にそれ蛇?って真顔で聞かれたことある。」と答えると呼吸困難になるくらい、笑っていた。

笑いながら姉2号が
「あんた、幼稚園の頃野菜でスタンプ作るから家から野菜持ってきてってので、トマト持たされたんだろう?」って言ってきた。(芋版を作るとかではなく野菜の断面でスタンプを押すというもの)

「うん、みんな、キュウリとかジャガイモとかなんだけど、私のはトマトだけでさ。先生、えっ!て顔したけどインクの容器に半分に切ったトマト入れてくれて。タネ、インクの容器にも画用紙にも落ちたけど。押しても押しても歪な楕円にしかなんないから、先生がお友達のオクラとジャガイモ借りてくれてバンバン押してくれたよ」と、語るとこれもほぼ「なんでトマト持たせるかな」と大爆笑になる。

日常はほぼ伯母の家で過ごしていたのだが、幼稚園や小学校の公的?な行事になると実母が関わってくれた。お世辞にもデリケートさはなかった。笑いのネタにはなること満載だけれど。

年上の姉たちがその分を埋めてくれていたと思う。私が小学一年生とき、姉らはは高校生だった。給食の時に使うナフキンには姉たちが可愛い刺繍をしてくれたのを色んなお友達に褒められて嬉しかった思い出がある。図工の宿題などあり得ないテクニックのもの(ほぼ姉の作品)を提出していた。

小学生の頃中島みゆきをよく聴いていたのも彼女たちの影響だった。佐野元春も。
いま、それに近い形で姪と関わっているのだと思う。今春社会人になる姪とは映画や、音楽やお洋服の話が出来る。メイクの話だって。
映像関係の仕事をしている姪とはその内容について話せるし、漫画やアニメについても深夜まで話しをした。

この姪たちに迷惑をかけるような最期だけは送るわけにはいかない。
自己完結していたい。
そんな気持ちが今回の初夢をみせたのかもしれないと思った。

雨は良い。人生の歩道から、思い出を洗い流す。   ウディ・アレン

晴れていたけど。
人生の歩道から、思い出を洗い流しながら笑えてよかった。"

と、一気に思い出を書いていた。

そういえばコロナ禍の前はお正月に集まることに躊躇がなかった。自立した姪たちとも2年は会ってないし、ましてや結婚した姪の花嫁姿も見れていないのである。僅か4年でこんなに暮らしが変わるなんて。夢にも思わなかったと言う話である。

いいなと思ったら応援しよう!