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【私の年のせいなのか ここが日本じゃないからか198】1月(13)日本語補習校⑤
1月最後の授業は、お正月のことを取り上げた。参加者は先週の5人に加えて、Yくんの弟、Jくんも。こちらが想定している年齢層よりも小さいから、うーん、大丈夫かなと思っていたけど、この子がそりゃもういい味を出してくれた。
大きいお兄ちゃんお姉ちゃんは、間違ったことを言いたくない、変なこと言っちゃったらどうしよう、という気持ちがどうしても働く。最初の授業で、ここはいくらでも間違えていい場所だからね、思いついたことはどんどん発言して、何か分からないことがあったら質問してね、とは伝えたんだけど、それでも、私が慣れないのと同じように、向こうだって私に慣れていないし、こんなこと言ったら笑われるかなとか思っちゃうのは仕方ない。
が、Jくんは、お兄ちゃんお姉ちゃんに比べると、そこのハードルが低い。だから、気になったら「えー、でも、それって~なんじゃないですか」と話してくれる。質問に対しても、他の子が言ってもいいかな、これで正解かな、と逡巡している間に、「あっ、××? 違うか、じゃあ○○?」と答えてくれる。教室の空気が、動き、熱を持ち始める。それは他の子も包む。お兄ちゃんのYくんが、ちょっとハラハラという顔で見守っているのも微笑ましい。
『教室はまちがうところだ』という絵本がある。間違えることを恐れないで、間違えた子を笑わないで、みんな安心して発言できる教室を作ろう、という詩を絵本にしたものだ。ずっと職員室の自分の机に置いていた。自分への戒めとして。
ただ、この本をいい加減に読むと危険かもしれない、とも思っていた。「まちがった意見をまちがった答えを ああじゃあないかこうじゃあないかと みんなで出しあい言いあうなかでだ ほんとのものを見つけていくのだ」という言葉がある。「ほんとのものを見つけていく」、ここを読み飛ばして、「みんなどしどし手を上げて まちがった意見を言おうじゃないか まちがった答えを言おうじゃないか」というところだけ自分に都合良く読んでしまうと、「間違えても平気」だけでなく、「間違ったままで平気」にもなりかねない気がする。
昨今のソーシャルメディアでの虚偽情報の拡散、デマを流した者の勝ちという風潮、そういうのにはほとほとうんざりしている。いろんな意見があっていい、間違っていても後から訂正すればいい、というのは、何か違うと思う。いろんな意見があっていいったって、天動説を主張しても相手にはされまい。同じように、歴史修正主義も大概にして欲しい。正解が一つじゃないこともしばしばあるし、正解だとみんなが思っていたことが後から変わることもあるけど、「いろんな意見がある」としてトンデモ言説を許すのは、やっぱり違う。
間違えていいのは、学ぶ謙虚さと他者へのリスペクトがある限りにおいて、だ。そこのところを子どもに勘違いして欲しくない。
…話が逸れすぎました。教室では、学ぶ気持ち、自分が間違っていたら改める気持ちがある限り、いくら間違えてもいい。子どもは教室で間違えていい。
でも、私はそれを子どもに伝えるのが下手だ。私自身が、間違えることを恐れているのだろう。もし私が生徒だったら、「間違ってもいいから言ってごらん」と言われても、試されているような、嫌な気がすると思う。長年進学校で教えてきて、早く正解を出すことが正しいみたいな空気に染まりすぎているのもある。そして私は「早く正解を出す」ゲームが得意で好きだ。所詮ゲームだけど。
やっと話を戻せる。Jくんは、間違える。正解を聞くと、「そうか!」と納得する。納得がいかなかったら「でも」と食い下がる。ああ、これが学びの姿勢だよな、と思う。この子が、このままのびのび参加してくれると嬉しいなあ。やっぱり難しいって止めちゃうかなあ。
Jくんのおかげもあって、お正月の話は楽しくできたと思う。感心したのは、全員、自分の生まれ年の干支を言えたことだ。日頃、おうちの人が意識して教えておられるのだろうなあ。途中から、見学に来ていたボルドーに引っ越したばかりのお母さんと年子の女の子二人も加わって、賑やかにやれた。
これで今後の目処が立った。2月からもこの路線で進めていこう。暦の順にやっていくうちに、そこから派生して地理や歴史も取り上げられるだろう。