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【私の年のせいなのか ここが日本じゃないからか81】8月(7)婿との摩擦fin.

 自分が何を求めていたのか、何を手に入れられなかったから辛かったのか、それが分かったのは、婿が話す機会を設けてくれたからだ。私がおかしいことに気づいた婿は、お母さんと話したい、と娘に伝え、再び話し合いの時間が持たれた。婿から、英語でいいかと尋ねられ、頑張るわ、と返事した。

 この、話をしたいという申し出が婿の方からあったこと、積極的に問題解決に向けて動いてくれたこと、それが大きかった。この人と私は、判断や言動のペースが合わないかもしれない。けれど、良い関係を作っていこうという意志、今の状況を良くしていこうという意志を信じることができる。

 信じる。トラスト。それがキーワードだ。私が求めていたのは、トラストだった。私は、義母様たちの信用を得たかったのだ。
 英語での話し合いの中で、トラストという言葉に行き着いて、そこからパタパタとオセロの駒がひっくり返るように、見ていた風景が違ってきた。

 思い出したことがある。娘が出産して帰宅した直後、口角炎ができたことがあった。私は、これはビタミンBのサプリを飲ませねば!と思い、婿に薬局で買ってきてくれと頼んだ。が、婿の返事は煮え切らない。私は、これは日本語が通じていないのか?と思い、繰り返し、ビタミンBの錠剤を買ってきてくれとお願いした。
 私は私で、娘のために必死で、すぐに行動しない婿に苛立っていた。一方で、婿は、本当にこれはビタミン剤で治るのか、どうするのが正解か、考えていた。結局、症状を写真に撮って、薬剤師さんに見せたところ、ヘルペスだろうということで薬を出してもらった。発症からここまで二日ぐらい経っていた。
 結果的に、薬剤師さんが出してくれた薬のおかげで、娘の症状は急速に改善した。良かった良かった、やっぱり症状を見てもらったのが正解だったね、と私は言った。

 婿は行動が慎重だ。私からは、ぐずぐずしているように見えるほどだ。でも、根底にあるのは、娘とべべさんへの真心だ。その思考の回路や表現方法が私とは異なるだけで、ベースにある善意志は一緒だ。私がそれを信用していれば、そして婿のペースを尊重していれば、苛立つ必要などないのだ。

 信頼と尊重。トラストとリスペクト。この二つは、以前フィンランドの教育を視察したときに何度も何度もあっちでもこっちでも聞いた(少なくとも建前は)フィンランド社会の基本原理だ。
 私は、婿に対するリスペクトとトラストが欠けていた。それなのに、一方で自分に対するトラストを求めていた。自分が求めるのであれば、まず自分が与えなければいけない。
 婿の善意志を感じられたことで、それならば信じることができる、尊重することができる、と思えた。同時に、そうではなくて、無条件に信じ、尊重する姿勢をまずこちらが示せていたら、そこから好循環が生まれていたのかと反省もした。

 考えたり、考えを表現したり、行動したり、のペースが異なるのであれば、お互いに相手のペースを尊重すればいい。
 私は、仕事をしているとき、生徒相手だったらいくらでも待てた。待つというのは、教員の仕事の、相当に大きな部分だ。そして、生徒は失敗してなんぼの存在だ。学校というところは、安心して失敗し、自分で学ぶところだから、私は生徒の成長する力、学ぶ意志を信頼して待てばよかった。
 それが大人との関係になると待つのが苦手になってしまう。根がせっかちだから。でも、ここは仕事じゃなくて生活の場だ。効率が第一の場所じゃないはずだ。お互いが気持ちよく、一つ屋根の下で暮らせるように、ここはあなた、年長者の貫禄を見せねばなるまい。まあ、ここまで年長者らしからぬ行動を取ってきて、今更感はありますが。

 多分、これからも、何度も何度も、え?と思うことがある。でも、善意志を信じて、トラストとリスペクトを忘れないでいれば、きっと何とかなる…と今は思う。因みに、婿は今では言われなくても家事をやるようになった。婿が家にいる時間は、基本的にべべさんの世話も婿任せで、私は楽をしている。

 加えて、今回感心したのは、今までも娘夫婦は、夫婦間の行き違いや感情のもつれを、こうやって話し合って解決してきたのだなあ、ということ。異文化間で家族を作るっていうことは、そういう努力が必要なんだね。これ、本当は同じ文化で育った人間同士でも一緒かもしれない。

 ところで、この話し合いの後、婿が娘に「お母さんの英語が思っていたより上手でびっくりした」と言ったそうだ。さりげに失礼じゃね?

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