マネジメント論(経営学・商学)と社会学との共鳴
特に、プロセス・コンサルティングを行う場合、その工程のストーリーづくりがとても重要となる。その際、個人的には、様々な領域の「サイクル(循環)」の考え方を用いることが多い。
ここでは、まず、マネジメント論(経営学、商学)の領域から、集合知形成のためのSECIプロセスを紹介したい。これは、野中 郁次郎氏、竹内 弘高氏らが提唱した「ナレッジ・マネジメント」の方法で、組織的に共用できる知識の形成とその運用を目的に実践されるプロセスである。
現場で運用されている暗黙知をまず共感に基づき浮かび上がらせた上で、形式知化して共有する。形式知化された複数の知識をつなげて体系化する(このプロセスは、一つの「モデリング」に近いと言えると思う)。そして、その知識を実践に移すため、形式知を一人一人、個々人の暗黙知に戻す。整理すると、下図のように、①共同化、②表出化、③結合化、④内面化(身体化)という一連のプロセスとなる。このプロセスを繰り返すことで、組織として、勝ちパターンを作り、深めていく・・・というものだ。提唱されてもう30年にもなる。
これは、サイクル(循環)なので、1度やっただけでは終わらない。下図の原典では、ケーススタディに基づき、この考え方がまとめられており、様々な組織の実践の参考になると思う。現実は、単線的な因果律では捉えられないという、日本のマネジメント論の一つの特徴が現れているのではないかと考えている。この考え方は、仕事では、説明がしやすいので実際に紹介することもあるし、明示しなくても、意識していることが多い。
もう一つ、抽象度はぐっと高くなるが、今度は、社会学で示されている世界の体験についての豊穣化のプロセスを紹介したい。確認してみると、上記よりも、さらに時代が20年ほどさかのぼるようだ。(下記、「気流の鳴る音」の初版は1977年)
このプロセスが紹介されている原典は、メキシコ・インディオを研究したアメリカの文化人類学者の著作について、日本の社会学者が独自の形で解釈し、まとめたものだ。
上図のマトリクスを構成する、軸中の用語として、「世界」と<世界>が使い分けられているところからして、この記事で必要十分に説明できるはずもない。そこで、詳しくは、原典にあたって頂きたいが、関連する説明の箇所を引用する。
私の解釈では、「世界」は、その体験者が浸されている特定のコミュニケーション・システム(言語システム、社会システム)だ。一方、<世界>は、その体験者が内面化している言語以前の本源的な感覚で把握されるものの総体である。
だだし、<世界>は、体験者の内面に存在しているだけではない。著者は、この本の中で、メキシコ・インディオの<トナール>と<ナワール>という概念を用いて、以下の指摘をしている。<トナール>は、文脈上、「世界」に、<ナワール>は、文脈上、<世界>に対応していると考えられる。
つまり、<世界>は、体験者当人にとどまらず、他者、自然、宇宙に通底する本源性であり、人間を含めた生命の共通感覚とも言うべきか。これが、「世界」よりも<世界>の方がより広く、より深いということの意味であろう。そして、「交響性」という筆者の提唱する概念の源泉が、この<世界>のイメージにある気がしている。
そして、上記のサイクルは、一人の人間が、自らを取りまく、これら2つの世界を相対化しながら(著者によれば「翼をもつこと」)、またどこかの世界に再度着地して(同「根をもつこと」)、世界の体験を豊穣化させる。その人に同じようなことが起こったとしても、サイクルを経る前と、経た後では、その体験が全く異なることになってしまう。このプロセスを繰り返して、次第次第に体験を深化させていく。こうした一つの方法論が示されている。(ちなみに、こちらの方は、最近知ったということもあり、また、簡潔に説明することがとても困難に感じるため、まだ、仕事で使ったことはない。)
こういったダイナミックな世界観が、今からもう、50年も前に示されていたことに驚いている。きっと、これまで多くの読者が様々なインスピレーションを得てきたのだろうと思う。この世界観に立つと、一人一人の人間の感性、感受性が、その人の世界を作っている(体験している)・・・ということが、理解できるという気がする。同じようなことが起こっていたとしても、それを受け取る人が持つ感性、感受性次第で、体験される世界のあり方が全く異なってくる。そのことが、Ⅰ~Ⅳのプロセスをたどることで、自分なりに理解できるのである。
今回は、日本の社会科学(人文科学)における円環的なマネジメントの方法論の特徴的な2つを紹介した。一つは、組織における集合知のマネジメントについて。そして一つは、個々人の世界体験の深め方という意味でのマネジメントについて、である。
この2つのサイクルは、その目的も内容も全く異なっているとはいえ、円環的で、サイクルを繰り返すほどに、その意義が広がり、そして深まる、という形式面では共通していると言える。そういった方法で、われわれを導いてくれるフレームワークであると捉えている。ヘーゲルの弁証法と似ている気もしなくはないが、やはり全く違うものではないか。この円環性が自分には腑に落ちる。それはおそらく、社会の複雑性が高まり、また、何らかの理想像を提示することができなくなった結果、先を見通すことをあきらめ、同時に、何かと何かの対立構造として世の中を理解・記述することも捨てざるをえなくなった。その帰結として、上記のような円環的な枠組みで、様々な分野のマネジメントを行うしかなくなったということだろうと考えている。この意味で、経営学と社会学は、応用領域は異なりつつも、互いに響き合っていると感じる。
われわれとは別の文化圏に住む人々が、これらの方法論を見た時に、どのように理解し、受け止めるか。腑に落ちるといったことがあるのか、ないのか。チャンスがあれば、いつかどこかで、聞いてみたいと思う。
(追記)
上記の記事を書いた後日であるが、社会システム論の古典とも言えるタルコット・パーソンズのAGIL図式にも、同じような円環モデルが採用されていたことを知ったので、ここにも紹介しておく。社会システムは、適応(A)、目標達成(G)、統合(I)、潜在的パターンの維持お呼び緊張の処理(L)を繰り返す・・・という考え方だ。現在では、この枠組みは、特に、社会構造の変化(社会運動等)を説明できないとして、機能主義に取って代わられている。しかし、とにかく、以前から社会学にもこのような思考伝統があったことを改めて知り、その影響の大きさに驚いている。ちなみに、AGIL図式におけるこうした円環モデルは、オープンシステムを採用した「モデル2」以降であるという。
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