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大瀧詠一さん林檎を食べなきゃ生存していたのに・・・

シンガーソングライター、作曲家、アレンジャー、音楽プロデューサー
レコードレーベルのオーナーDJ、レコーディング・エンジニアー
マスターリング・エンジニア、著述家、元Oo Records取締役などの多くの
肩書きを持つ「大瀧詠一さん!」



岩手県生まれの母子家庭で育ち

母親が公立学校の教師だったそうです。



小学5年の夏、親戚の家で聴いたエルビス・プレスリーやビーチボーイズなどの音楽を分析的に聴いて独自の研究を行なっていたと言います。




そのため1962年の夏から1966年までにチャートインした曲はすべて覚えているというほどだったんです。
また洋楽面のみ出なく小林旭さん、三橋美智也さんなども好んで聴いていたそうです。特にクレージーキャッツのスーダラ節の影響は凄かったそうです。



1967年製鉄会社に就職して会社の慰安会があり、余興でビートルズの歌をアカペラで歌ったところ、上司から「うん、キミはこういう所にいるべき人間ではない」と言われ出社して約20日、在籍期間3ヶ月で退職してしまったわけです。



1968年に細野晴臣を紹介されてて意気投合して、「はっぴいえんど」が登場しました!!!!!



はっぴいえんど活動中にソロ活動を開始し、アルバム『大瀧詠一』を発表♪




何故か?
はっぴいえんど解散後はソロ活動に移行せず、当時のシンガーソングライターとしては異例であるCMソングの制作にかかっていました。



また、ラジオ関東で、DJをつとめる番組『ゴーゴーナイアガラ』を開始し
学生層のファンを獲得するなど、精力的にソロ活動を開始するが、その矢先エレックレコードが事業縮小し、契約破棄される・・・




そして後ににコロムビアレコードにナイアガラごと移籍する。この時3年でアルバム12枚を製作するという内容だったんです。



『GO!GO!NIAGARA』『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はヒットを記録したものの、趣味性の強すぎる楽曲が災いし
以降作品の完成度とはうらはらに売り上げが低迷『NIAGARA CALENDAR』はチャート入りさえしなかった。




そして、『LET'S ONDO AGAIN』を最後にコロムビアとの契約を解消。
福生45スタジオの機材も売却。ナイアガラレコードも休業状態に陥ったのです・・・



以降レコードの販売権の契約が残っている2年間の間、ソロ作が発表できない状況に陥る・・・



この年にはアルバムを3作しか作っておらず、本来ならばもう1枚作らないといけない契約になっていたための自主規制であり、コロムビア主導で「TASURO YAMASHITA FROM NAIAGARA」が発売された時には安堵したという。



しかし、1979年からはプロデュース業を手掛け、翌年CBSソニーに移籍。

女性向きと考えた「さらばシベリア鉄道」を太田裕美さんに提供しました。

そしてこの曲は大瀧の曲で初めてのヒットシングルになったのです。




その後、松田聖子の シングル「風立ちぬ」で初のチャート1位を記録。
うなずきとりおのシングル「うなずきマーチ」では大滝作詞曲で初のチャート入りを果たすなど、多くのアイドルソング・コミックソングなどを手掛け一躍名声が高まる。




1997年には12年ぶりとなる新曲「幸せな結末」を発表。



2000年に入ると再び旧譜のリマスタリング音源復刻監修を再開。
また昔の自分のラジオ番組をリマスターして再放送したり
昔の自分のラジオ番組の新シリーズを開始するなど、独自の試みを行うようになった。



2003年には6年ぶりのシングル「恋する二人」を発表。

ドラマ「東京ラヴシネマ」主題歌としてヒットする。

また、竹内まりやのアルバム『ロングタイム フェイバリッツ』でフランク・シナトラ & ナンシー・シナトラの「恋のひとこと」を、これらが最後の作品発表となった・・・



その後、自宅にマスタリング用の器材を導入し
2005年から最後のリマスターとしてナイアガラ旧譜の30周年アニバーサリー盤の発表を順次開始。

最終作となる「EACH TIME」の発表を控えていた。




ラジオ『大瀧詠一アメリカン・ポップス伝』も佳境にさしかかっており、2014年春もしくは夏に完結し、本命であるイギリスのポップス伝に移行するものと目されていたのに・・・



そんな、ある日・・・



2013年12月30日17時30分頃
自宅で家族と夕食後のデザートに「林檎」を食べている時に倒れ、救急搬送された。




警察によると、家族は「林檎を食べていてのどに詰まらせた」と説明していたという。救急隊がかけつけた時は既に心肺停止状態であり、病院に搬送後19時頃に死亡が確認された。



65歳没。私の中での「青春時代」は、この時に終わりました・・・




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