Moon Sick Ep.10
隠語とは、ある一定の限られた者だけが理解できる言葉のことだ。限られた仲間内以外には通じなかったり、あるいは別の意味合いを持った言葉として受け取られたりする。
『月がきれいですね』なんて、姉の夜の散歩に無理やりつきあわされた際、すれ違う近所の人に、姉がよく言っている挨拶くらいの認識しか無かった。その挨拶に、果たしてどんな意味があると言うのだろうか?その時の俺は、そんな風に思っていた。
あの時、何で、顧問は、あの話をしたんだったっけ?俺は、寝室で横になりながら考えていた。
横で眠る彼女からは、さっきから小さな寝息が聞こえている。俺はといえば、いつまで経っても、なかなか寝つけないまま、あの日のことを思い出していた。
確か、あの日の授業では、夏目漱石の著書に出てくる登場人物たちの気持ちを考察していたような気がする。ストーリーは、いわゆる三角関係の話だった。
めずらしく意見が飛び交っていたのは、テーマに『恋愛』めいた話が出てきたせいかもしれない。恋愛は、あの年頃にとって一番の関心事だ。
「なぜ、何も言わずに、死んでしまったのか?」
「友人なんだから、最初にちゃんと言えば良かったんじゃないのか?」
「裏切られたなら、文句の1つでも言ってやれば良かったのに」
どうやらクラスメートたちは、考察云々の前に、あまりにも自分の感情を、人に伝えようとしない登場人物が、理解しがたいようだった。
しばらく、そんなクラスメートたちの言う事を黙って聞いていた顧問だったが、おもむろに「なるほど…」とつぶやいた後、あの低い声で、静かに語り始めた。
「それを理解するには、この本がどういう時代に書かれた本かということを、少し考えてみた方がいいかもしれませんね」
「これっていつの時代なんですか?」
「明治時代ですね」
「何か、今とは違うんですか?」
「違いますよ」
「どう違うんですか?」
「そうですね」
いつも無表情でいることが多い顧問には珍しく、このやりとりを楽しんでいるように感じるのは、俺の気のせいだろうか?
「まず、この時代は、自分の欲望を口に出すことを良しとしなかった時代なんです。恋愛感情もしかりです」
「恋は口に出さずに胸に秘めておくもの。結婚は、恋とは異なる家と家を繋ぐもの。親が決めた結婚相手と顔を見ることもないまま、結婚するなんてことが普通だった時代なんです」
きつい時代だな…。
俺は思った。
たとえ、それが、人として良き在り方だとする時代だったとしても‥‥。
その頃の俺はといえば、自分の気持ちを口に出すことは、却って、自分の首を締めることになることだと悟っていた頃だった。そのせいか、余計に心に刺さってくる。
おかしなことを、俺の前でだけ口にする姉。
俺の言うことは、誰も信じてくれない家族。
クラスメートたちには理解しがたいであろう、言葉にできないやるせなさとやらが、俺には、すんなりと理解できるのだった。
その時、
「ああ、だから『月がきれいですね』と言ったんですね」
本好き女子で有名なクラスメートがポツリともらした。
「ああ、それを、ご存知でしたか?」
「はい、なんで、こんな回りくどい言い方をするんだろうって、ずっと不思議だったんです」
クラスメートのほとんどが、きょとんとした顔で、本好き女子と国語教師のやり取りを眺めていたが、途中から我慢できなくなったようで、
「先生、『月がきれいですね』って何?」
「俺らにもわかるように教えて!」
と聞いてきた。
「ああ、すみません。これは、夏目漱石のセリフですね。英語教諭だった彼が、アイラブユーを『我君を愛す』と訳した学生に、『日本人なら月がきれいですね』と訳せと言ったとする逸話から来ているのですよ」
「どういうことよ?」
「日本人なら、愛を、直接口にしたりはしないと言っているのですよ」
「俺は、言うけどね」
「私も言っちゃう」
「そうですね。今の時代なら言うのかもしれませんね。でも、あの時代は言わなかった。そういう時代もあったのですよ。」
「とすれば、この『月がきれいですね』という暗号のようなセリフは、ある意味、隠語だと言ってもいいのかもしれませんね」
俺は、段々はっきりと思い出してきた。
あの日、顧問は、そう言っていた。
そして、俺は、なぜ顧問が、あえてああいう言い方をしたのか、後から知ることになるのだった。
【御礼】ありがとうございます♥