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必要な経験は与えられると考えれば、明日は明るい

昨日、久しぶりに修士時代の友人に会った。
年齢も10近く離れ、その人は海外勤務のため、日本で会えるのは年1回あるかないか。
けれども、昨年に続き今年も会えた!

仕事(就職:大学教員の公募)の話もした。
私は教育機関の仕事は全て公募でしかやったことがなかったため
その分野の狭い世界の、いわゆるコネクションみたいなモノは
わからない。
(多分、わかったほうが、効率よく?仕事が探せるかもしれないし、
明確に「教授になりたい」などがあれば有効なのだろうが、
なんせ、自由を一番愛しているので、「人の紹介」という縛りが
体質に合わない。残念。けれど、仕方ないこと。)

一生懸命、大学によって、微妙に要求される異なる応募書類を書いて
不採用の連絡をもらった時、悲しいよね、と共感する。
(特にあの、労力と時間、ね。。)

「でもさ、不採用だったからある今の人生も嫌ではないのだよね」

「そこで働きたい」と思って
一生懸命に書類を準備し、応募した気持ちはホンモノ
だから、面接に辿り着かないのは、悲しいのもホンモノ
けれども
不合格だからと言って
人生が終わるわけでもないのもジジツ
必要としてくれる現場があるのもジジツ

まだ、今の所で「学ぶことがある」という
神の領域へと昇華させてみることにしたら
二人して納得(なぜか)

そして、なぜか、その考え方がいい気分を引き起こしたので
考えてみる。

歳を重ねるにつれ
仕事への見方も、取り組み方も、望む生き方も変わってくる。
自分の思い通りの未来にならなかった
でも、適当ではなかったよね。まっすぐ、取り組んだもの。
(きっと、ここで、先ほどのコネとか、若干不純物が混ざると
負の感情が湧き起こるのかもしれない。)

コツコツと、今やっていることが、振り返れば軌跡となり
コツコツと道を作っているのだ
「転職」というドラマチックな変化ではないけど
私たち、腐りもせず、ある意味純粋にやり続けてること、すごくない!?と、
お互いに褒め合った(笑)

本当に、その時々「こうしたい」「こうありたい」と強く願い
そこに向けて必要なことをして、かつ、今を生きる
そして、出た結果を受け止めて、今を生きる
現実的に。冷静に。責任を持って。

そうやって生きていけば、
人生で試練・喜びも含め、必要な経験ができるのかな?
そんなふうに考えると
明るい人生ではないか。楽しみだよね、明日が

頑張れるじゃん、そういう明るい締めくくりになった。

それしかない、と思うと苦しくなるだろうから
たくさんある選択肢の中で、直感に従い決めて
結果によって、また選択をして。
その繰り返しで、矛盾なく健やかに生きていけるといい。
合格は望むけれど
合格でなくてもいいと思えるぐらいの
人生の豊かさというか
人生を面白がれるというか、丸ごと楽しめるというか。
若い友人の未来を心から祈る。






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