未来の田んぼを育てるというイメージが浮かんだ2013年の話
わたしがはじめて「休耕地」という言葉を聞いたのは、2012〜3年頃だったと思う。
今まで作物を栽培していた田畑での農業をやめる、または作物を作らなくなると休耕地として扱われる。国の減反政策の影響も有るが、農家さんが高齢化し、後継ぎがいなくて休耕地になっていることが多いようだ。
南房総で、耕さない田んぼの教室を開くおよそ2年前に、「NPO法人・日本自給教室」の分校を館山で開いていたのだが、そのときに借りたのが、20年近く使われていない休耕地だった。
「日本自給教室」は、岩澤先生の自然耕塾で「冬期湛水不耕起移植栽培」を学んだ、斉藤さん(通称ハカセ)が千葉県神崎町で主催していて、2012年にわたしとたけしくんが知り合うきっかけになった所。
ちょうどその頃、自然耕塾に通っていた人が、卒業したら館山で実践したいと言っていて、日本自給教室の分校を出したいというハカセの思いと絶妙にマッチングして、たけしくんに話が持ちかけられたようだ。
たけしくんは、2007年から南房総の田んぼ2町歩でお米農家さんと「冬期湛水不耕起移植栽培」を実践していた。
「休耕地」からお米づくりをするのははじめてのことだ。
岩澤先生の栽培法は、冬の間から田んぼに水を張ったり、一般の農家さんとは水を使うタイミングが違うので、たけしくんが田んぼを借りるときは「水を自由に使える」のが一番の条件で、周りの農家さんに迷惑をかけたくない為、周囲で稲作をしている人が居ない「休耕地」を借りるようにしている。
館山の休耕地は、ぐずぐずで、穴ぼこだらけ、草が生い茂っていたが、棚田の上には堰があり、水には困らないということでその場所に白羽の矢が立った。
たけしくんには、棚田だった面影がありありと見えたのだろう。
棚田を一から再現するということに、わくわくしたようだ。
わたしはといえば、ここでもいつも書いている通り、岩澤先生の自然耕塾でお米づくりを学んだという訳ではない。自給教室を見学に行ったときにハカセと知り合ったのだが、たけしくんと結婚するまで、田んぼのことはまったく知らなかったし、「今、休耕地がたくさんあるから、農家さんから使って欲しいって言われることが多くなった」と聞いても、「ふーん…そうなんだぁ」ってかんじ。
当時のたけしくんがどんな風に考え、どうやって棚田を再現していったのか、わたしには断片的な記憶だけだ。
そのときのわたしがつくった募集案内はこちら。
初年度、休耕地Aを田んぼに、休耕地Bに大豆を植えて、麦を植えて収穫する。翌年、Bは田んぼにし、休耕地Cに大豆を植えて、麦を植えて収穫する。その次の年、Cは田んぼに、Dに大豆を植えて、麦を植えて収穫する…
これを繰り返していき、奥に続いている休耕地一体を田んぼにかえしていくという、館山校のオリジナルプランだ。
生徒さんは11月から麦を蒔くところから、翌年の大豆の収穫までの1年間、参加してもらう。
ここで教室を開くことで、お米づくりを学びながら、大豆と麦の栽培を体験してもらって、休耕地が耕されること無く、ゆっくりと田んぼにかえっていくというコンセプト。
たけしくんの考えていた詳しい理論はよく分からなかったけど、
ふむふむ、大豆と麦を育てることで『未来の田んぼを育てていく』んだなと感じたことを、この記事を書いて思い出した。
当時のわたしには、『なぜ、そうするのか』を生徒さんに噛み砕いて伝えることはできなかったが。
2013年、田んぼはここからスタートした。※写真はいちど草を刈ってある。もとはヨシが生い茂っていた場所。
(う、うす暗い…)
5月、田植え完了
で、隣の草を刈って整地し、7月に大豆の苗を植えた
手前が大豆畑で、奥が田んぼになっている
11月、大豆の間に麦をまく。大豆はこのあと収穫。
9月のおわりに稲を収穫
2014年5月、田植え前に麦の収穫
麦が植わっていたところに水を張り、田植えをする。その奥はヨシの生えた休耕地。
2014年度のチラシ。タイトルは『田んぼをそだてよう!』
順調に滑り出したここでの教室だったが、このあと、堰の水が自由に使えなくなったことで、2015年度からは南房総市の棚田に場所を移すことになった。
そのタイミングで、自分たちの看板で、田んぼの教室を開くことに決めた。
自分たちのスタイルを確立させていくために、形を変えながらいろんなチャレンジをして現在に至る。
ところでなぜ今、この記事を書こうと思ったのか?
たけしくんが棚田を復活させるときの手法は、伝えておきたいことのひとつだった。
あれから7年経ち、ようやくわたしなりに咀嚼し、言語化することにトライしたいと思い、重たい筆をとった次第であります。
(前置きが長くなりましたがつづきます!)