塚本晋也監督「野火(原作:大岡昇平)」腐女子は見た方がいい
どうしてこんな映画を見てしまったかというと、ちょうどアマプラで見放題が終了することと、授業では戦後文学のことも扱うので見ておかなければならないという二つの理由だった。
特に戦争の悲惨さを知るためであるとか、グロテスクなものが見たかったというわけではないので逆に先入観なく見れたと思う。
映画を観終わった後に100分de名著の大岡昇平回、監督のインタビューを見たくらいで原作は未読。おそらくは主人公によるインテリジェンスを感じさせる語りがないのが映画版の特徴であって、より没入感が高くなっていると思った。
塚本晋也のインタビューを見ると「政治的メッセージは込められていない」
と言う。確かに映画の中では強烈なメッセージが叫ばれることはないが、この作品を作ること自体が強烈なメッセージのように感じる。
「戦争を考えるきっかけになるといい」と言うが、多分この映画を見ようとする人間は元々反戦的だと思うし、そうでない人は「男たちの大和」や「永遠の0」を見ると思うので、制作者の意図は善良なる視聴者にはすでに伝わっているのだ。
なので見てもらうとしたらなるべく不真面目な人の方が良いと思うし、同時に実況映えする映画だとも思った。私の直感ではオタクはおそらくこういう映画が好きなので是非とも見て欲しい。アマプラでの視聴はあと一週間程度で終わってしまうので、むしろ同時実況を企画したいくらいである。
そういうわけでこの記事を読んでいる人に興味を持ってもらうために今回は「戦争」を抜きにして、この映画の素晴らしさを語っていこうと思う。
実は低予算映画
この映画を観た時に監督のインタビューを見たら低予算の自主制作映画だと言うので大いに驚き。全くそれを感じさせないダイナミックな映画であるし、ところどころの容赦の無さが予算という概念を捨てていた。聞くところによると小道具もほとんど手作りであり、ボランティアの活躍もあったという。逆に考えてみると、低予算ゆえに泥臭さ、ある種のリアリティーが生まれてくるのかもしれない。CGを多用するとどうにも作りものっぽさが生まれてしまうし、役者も揃い過ぎると商業っぽさを感じて興醒めしてしまう。
パーティー追放モノ
出だしがもうなろうもののテンプレっぽくて面白い。主人公の田村一等兵は若くもないおっさん兵士。戦場でも役に立たなそうな中年男性がよりにもよって結核を患い、部隊から外されてしまう。仕方なく治療を受けるために野戦病院に向かうも、ここでも邪険に扱われてしまう。
どこにも居場所がなくなってしまった主人公の状況は悲惨であるが、集団から離れた解放感からか失っていた人間性を取り戻していく。そこで田村一等兵は自然の美しさに気づき、フィリピン・レイテ島という南国の楽園で素晴らしい生活を送っていくことになる。
ここにもエドガーアランポー
本作を書くにあたり大岡昇平が参考にしたのはエドガー・アラン・ポーの
『アーサー・ゴードン・ピムの物語』本当にどこにでもいるのがポーである。
100分de名著ファンの方ならすでにご存じかと思うが、このポーの作品はなんたって冒険小説である。遭難した船の乗組員たちが極限状態に追い詰めらるサバイバル小説でもあり、人肉食という禁忌を犯してしまうというショッキングな内容である。このことを知っていれば直接ネタバレせずともなんとなく察せるものがあると思う。
みんな大好き芋
この作品中では芋はかなり貴重なものになる。なんといっても人間が生きる糧になる大事な大事な食糧である。この芋を取り合って醜く争うところも本作の見所の一つでもあり、島生活においてお金なんかは無用の長物になってしまう。謂わば芋が共通貨幣となっていくのだが、そんな大事な芋を交換に出してまで手に入れたいものが旧日本軍にはある。それは何か?人間が本当に必要なものは何か?という問いに対しての一つの答えである
耽美な世界観
反戦映画ではありつつもどこかそれ以外の要素に惹かれてしまうのが不真面目な視聴者の見方で、スプラッター映画としても見て取れるのが今作である。しかも良質なスプラッターで、グロの中に芸術性とエロスを感じとれるのだ。映画の中では赤が差し色となっていて、熱帯植物の緑や暗い画面によく映えている。その赤は野火の赤でも花の赤でもあり血の赤でも内臓の赤でもある。主人公は官能的な赤に魅せられ赤に誘惑されてしまう。主人公が赤という色が持つ魔力に打ち勝つことができるかは映画を見てお楽しみください。
BL要素を嗅ぎ取れ
主人公が出会うのが安田と永松という男なのだが、究極の極限状態で出会う仲間であるから信用はできない。それでも一緒にいるのは人間という集団的な生き物の性で人といることで安心したいのだ。そういうところに人間の普遍的な孤独を感じてしまう。
田村一等兵が一人で森の中を彷徨うのがサバイバルであるならば、田村一等兵が仲間たちと出会った後もサバイバルである。戦争映画でありながらもヒューマンサスペンスとしても見れるのが野火であり、後半になると人間の恐ろしさにスポットが当てられる。
三人の関係性においての中心人物は永松であり、気弱な性格で泣き虫である。田村はそんな永松に助けられて一緒に生活していくのだが、その永松の親のような存在でも上司のような存在でもあるのが安田である。
安田という人間は足を負傷しているだけではなく永松をパシリとして扱うので永松のことを考えればそんな奴放っておいて一人で暮らした方がいいに決まっているが、永松にはそれが出来ない。寂しがり屋な永松は依存体質であり、安田から離れることができないのだ。
しかし永松は田村という存在を見つけてしまう。田村も歳的には安田とそんなに変わりはなく、永松にとってちょうど父親くらいの年齢であるのかもしれない。
原作の永松は妾の腹から生まれた子供であって父性に飢えているのは明らかである。たくさんの人間が困窮している戦場において永松は人を選べる立場であるが、同年代の男は選ばない。そこに同性愛的理由を感じずにはいられないのである。(腐女子なので)
しかし「野火 永松 同性愛」で検索しても一つもヒットしないのだ。これはおかしい。ということでフォロワーにもこの映画の真相を確かめて欲しい。なるべくなら腐女子がいい。
画面が全体的にグロく「おいでよ贓物の森」なので観る人を選ぶし、何より食欲が無くなるのでトラウマ必須なのだが、どうもこの三人の関係性が引っかかってしまって仕方ない。
なので是非とも「野火」を見て欲しい。