「好きなことを仕事にする」 への違和感
先日、日本からゼミ研修でオランダに来ている学生さん達に、私がこれまで歩んできた道のりについて、お話しをする機会がありました。
彼らは大学3年生。就職活動や、今後の進路などを悩む時期ですね。好きなことが見つかってません、みたいな話も出たりしました。私も、かつて色々悩んだり、迷ったりしてきたので、すごく良くわかります。
自分が思うことを話しましたが、帰ってきてからの数日、色々考えてしまったので、それを整理すべく、あーでもないこーでもないとnoteに書き始めたら、書いては消し、書いては直し、、、時間がすごいかかってしまった…。でも自分の考えを整理する良い機会にもなりました。
甘い言葉
自分が好きなことや得意なことがはっきりしていると強いですし、好きなことを掘り下げていくのは、人生を豊かにも、楽にも(楽しくも、生きやすくも)できると私は思っています。
なので、好きなことを仕事にすることに関しては賛成だし、むしろ後押ししたいのですが、「好きなことを仕事にする」というタイトルの本などには、時々モヤっとした気持ちになります。好きなことを深めることより、それを仕事にすることにフォーカスされて、ちゃんと伝わらない可能性もありそう…と感じるからです。「好きなことを仕事にする」という理想像みたいなものが一人歩きしそうだなと。
好きなことがわかっていないからこそ、何か好きなことを仕事にしている人に憧れる。そのうち、自分の好きなことを掘り下げるより、「好きなことを仕事にしている自分」が目標になってしまう。そんな危うさもあるかなと思っています。
私は、自分が将来何をしたいのかよく分からなくて迷っていた頃、まさに「好きを仕事にする」みたいなタイトルの雑誌に手を伸ばしたことがあります。色々な職業や資格が紹介されているような本です。
当時は、そこで紹介されている人達が凄くキラキラして見えて、私も何か手に職をつけたいなとか、資格を取ろうかなとか、英語を使った仕事をしたり海外で働いてみたいなとか、考えていました。その本に載っている数ある職業のなかに、自分にぴったりのものがあるかもしれない。私が好きだと思えて、一生の仕事になるようなものがあるかもしれない。そんな淡い望みみたいなものを抱いていました。
でも、結局はそんなところには答えはなくて、自分が何を好きなのか、とにかく飛び込んでやってみて、選択しながら深めていくしかないと学びました。突然、自分にぴったりの仕事に出会える、なんてことはない。これかもと思える分野や仕事を試してみて、そこで学んだことを活かして、さらに自分のことを地道に知っていくしかないのだと考えています。今の仕事が好きと言えている人たちは、色々な道を経てそこに辿りついていて、今現在も、考えたり方向転換したりしながら、前進しているのだと思います。
すごく当たり前のことで、今更何を言っているんだと思われるかもしれませんが、今、好きなことがわかっていないと思う人に向けて、改めて言葉にしておきたいなと思いました。
仕事は多面的
「好きを仕事にする」といったタイトルは、特にやりたいことがハッキリしていないと、すごく魅力的、かつ理想的に見えます。
でも、実際、仕事というものは、ものすごく多面的で、好き=仕事、という単純な一本線をひける関係ではないことの方が多いです。その仕事に必要なスキルや性格は、一つだけでないですし、働く会社の環境や体制などにも大きく左右されます。仕事という括りと、業界という括りもあります。例えば、同じ営業の仕事でも、業界が違えばガラリと内容は変わります。
そもそも、その「好き」ということ自体が曖昧な感情で、XXが好きだと思っていたけど、ブレイクダウンしていったら、自分が本当に好きなことはYYだった、ということも多々あります。好きだったけど、突き詰めていったら他にも好きなことが出てきた、ということも。
高校生の時、お菓子を作ることが好きだった私は、卒業後の進路として製菓学校も選択肢の一つに入れていました。でも、体験入学に行ってみたら、違うと感じてその選択肢はあっさり無しに。それを毎日やっている自分が想像できなかったというのもありますが、「クリームを搾り袋に入れるときには気泡が潰れるので振ってはいけない」みたいな細かさが、自分の性に合わないと思った鮮明な記憶があります。細かい作業は好きですが、細かいルールは好きじゃなかったのか…、あまり良く覚えていませんが、実際に一歩具体的に踏み出してみたことで、これは自分のやりたいことではないと気づきました。
自分の周りを見ても、みんな紆余曲折な道を辿りながら、いろんな仕事をしています。最初の仕事と同じ仕事、という人は逆に少ないですし、同じ会社で働き続けているとしても、役職がついたり、部署が変わったり、世の中の働き方も含め、常に変化していきます。自分の道を見つけて歩いていくということは、好きなこと、楽しいと思える瞬間、得意なこと、理想、仕事環境、自分を取り巻く社会のことなどなど、ありとあらゆることを鍋に入れて煮込みつつ、濾過して、純度の高いスープをつくっていく、みたいなことかもと私は理解しています。
好き=仕事でなくても良い
自分が何を好きなのか知ることはそこまで難しくはないかもしれません。でも、好きな仕事となると、急にハードルが上がります。上に書いたような仕事の多面性もあれば、そんな仕事があったんだ、と知らない世界もあったりして、やってみないことには本当にわからないと思います。
私はとにかく飛び込んでみて、そこで必死にやってみたら、知らなかった世界が開いて、次のステージに行き、そこでまた必死にやってみて、の繰り返しでこれまできました。遠回りしながらですが、少しずつ自分のことがわかってくると同時に、どんな仕事が向いているのか、好きなのか、徐々に分かってきたなと思います。人によっては、小さい時から自分のことをわかっていて、あまりブレない人もいると思いますが、私は相当遠回りしました。
好きなことが仕事として実現されることだけが、理想的でもないし、そもそも仕事として成立しないこともあります。私の場合、私は英語とか異文化とかにも興味があったけど、それは仕事には直結せず、結果的に生活という形になり、今があります。自分の好きなことを深められる場所は、仕事だけではないと思うからこそ、「好きを仕事にする」をそこまでキラキラしたものとして扱わないでくれ、と思います。
今の自分のこと
やりたいことが見えていないと、余計に、好きなことを仕事にしている人が魅力的に見えるように、自分のこれからのビジョンがはっきりしていないと、人は分かりやすいものに惹かれやすいのだと思います。
私は、イラストレーター、デザイナー、アーティストと、三足ぐらいの草鞋を履いて仕事をしているのですが、なんだか自分に不誠実な気がしていました。どれも真剣にやっていますが、一つの方向に全振りしている(ように見える)人をちょっと羨ましく思ったり、自分は中途半端なんじゃないかと後ろめたさを感じたりすることがありました。
でも、これは、うっかり問題を履き違えてるのかもと、最近思ったのです。
三足の草鞋を二足にしようか…と考えたりもしていたのですが、好きで複数の草鞋を履いているなら、それはそのままでの良いのではないか、と。一本に絞っている方が、自分に誠実とは限らないのに、自分がぶれているから、そっちに引っ張られたのかもと気づきました。何をやりたいのか、何を掘り下げたいのか、仮でもいいからクリアになっていないから、他が気になったりするのであって、問題なのは三足の草鞋のほうではなくて、その草鞋を履いて何をしたいか、の方だよね、と。
もちろん、一つに絞れたら全集中できるし、絞るリスクをとっていないだけかもしれない。でも、どれも自分が好きなことで、どれか一つに絞れないのであれば、それも現時点の答えの一つだし、とことんやっていったら、取捨選択されてどれかに集約されるかもしれない。海外への興味とつくることの両方を、行ったり来たりしながら、徐々に深めて広げて、今までの自分の人生を形作ってきたように、時間は余計にかかるかもしれないけど、その都度そのステージで真剣に取り組めばいいのかも、と思ったのでした。
長々と書いてしまいましたが、こんな感じで、日々、考えてはアップデートの繰り返しをしています。面倒臭い性格だなと思いますが、ぐるぐる考えるのも好きなんだと思います。
これからの自分を考える時に、一つの考え方として、誰かの参考になれば嬉しいです。
読んでくださり、ありがとうございました!