川ジイの授業「芸術教育とは」~大学時代のノートがひょっこり出てきた
突然、大学時代のノートの1ページがひょっこり出てきた。当時、ルーズリーフを使っていたのだ。でも出てきたのは、このぺージだけ。この授業は川原浩教授の授業だったと思う。(私たちは、親しみを込めて「川ジイ」と呼んでいた。)大学3年か4年のときだから、昭和58年か、59年のことだ。
広島大学教育学部 教科教育学科 音楽教育学専修の「音楽教育」の授業である。川ジイの授業の多くは、明治時代?のように(笑)、先生の言われることをそのまま書き取るというスタイルだった。しかし、なんともいいことが書いてあるではないか!
・・・というわけで、ここに書き留めておこう。
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芸術教育
あらゆる芸術の鑑賞と表現を通し、人間生活において重要な美的体験(美を意識する心の働き)を与えることによって、その人自身の精神生活の形式に大きく貢献する審美的趣味の育成を目的とする教育である。さらに芸術教育においては、人間の精神生活の基本的な要素である創造力を、芸術体験を通して正しく訓練することも重要な課題である。
芸術による教育の根源は、古代ギリシアに見ることができる。古代ギリシア人が生きていくカロカガティア(美にして善なること)の理想のもとに、美的訓練は同時に道徳訓練である理念に基づき、教育において芸術(特に音楽)による美的体験が重視された。この人間の美的教化の思想は、中世の長いキリスト教時代には沈滞したが、その16世紀に至り美的道徳の理想を意味するー美しき魂の思想として新しく展開された。それは人文主義思想を背景として、美的情操教育が復活するとともに、カロカガティアに由来する人間の美的教化の思想として成立したものであった。そして18世紀に入ってから、美しき魂を理想とするシラー(独)の美的教育思想、つまり完全な人間性を育成するためには美や芸術を通して人間の感性と理性の両面を陶冶されなければならないということが提唱された。さらに進んで19世紀後期に至り、イギリスのラスキンやモリスらによって、功利主義を廃して美意識を高め、実生活を美化することによって社会を改善するという審美運動が唱道された。そしてそれが糸口となり、美的な人間育成を目指す、シラーの美的教育思想は、今世紀(20世紀)にかけて新しい芸術運動として19世紀後期イギリスやドイツを中心とする欧米諸国に展開されていった。それらの中には、教育に芸術的特性を適応して、自己活動への教育を意図するもの、また美的教授や美的創作を通して創造力の陶冶を目的とするというような、各種の主張がみられる。
我が国においては、1872年(明治5年)の学制以来、図画や唱歌などの表現教科を通して芸術教育を行うことになっていた。しかし、1907年(明治40年)の小学校令の改正によって、ようやく図画と唱歌が、小学校における必修教科として位置づけられたということから考えれば、明治期における芸術教育は遅滞していたといえる。その後大正期に入ってから、19世紀後期の欧米諸国において展開された芸術教育思想が、小西重直や阿部重考らの教育学者によって統合された。したがって、その影響も大きな力となり、児童の個性と創造性の開発を目指した我が国独自の芸術教育運動が、作家、詩人、作曲家そして画家らの芸術家たちによって推進された。中でも、その先駆的役割を果たしたのは、作家鈴木三重吉によって創刊された新児童雑誌『赤い鳥』(1918年/大正7年)であった。それは、芸術性豊かな童話、童謡、また作文指導を通しての芸術教育を意図するものであり、それに伴って、成田為三や弘田龍太郎らの
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…と、ここで突然終わる。あとのノート、どこかからそのうち出てくるかもしれない。
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