一体誰の人生を生きてんだって話
数年前に父親が突然死んでしまったことが大変ショックで、
それから私は自分の人生の寿命の中で何をすべきかを考えるようになった。
ショックというのは具体的な言葉にするとこうだ。
定年までおそらく本当は住みたくなかった東京でサラリーマンとして単身赴任で日々働いて定年まであと何日というカレンダーにバツ印をつけながら数えて、
やっと定年が来て北海道に戻って、好きなことばっかりする日々を10年過ごして、
さあまだまだこれからやるぞというときに気がついたら脳みそも半分ぐらいになっちゃって、心臓も止まってしまう。
さあまだまだこれからこの土地をこうして、
あの山を登って、お金を貯めてあそこに行って。
って、夢見ていた人間でも、突然死ぬということ。
夢を見てたって、身体の機能が止まってしまったらやりたいこともできずにある日突然死ぬんだなということ。が、とてつもなくショックだったのです。
夢見る人はやり切るまで生きるもんだと勝手に思っていました。
そう考えると、
今はたとえばもちろん生活のために(家賃払うとか食べ物買うとか)今所属しているところで仕事をしてるけど、所属しているところの仕事に100%自分の人生注いだところで、どうなんの?定年まで毎日カレンダーにバツ印つけて働いて、定年になってからさあやりたいことやりましょってときには脳みそが小さくなって死んでいく。
私は私の人生を生きてるって言えるのでしょうか。
生活費のためとはいえ、
日々誰のための何のために何をやっているんでしょうか。
日本の?大きい?組織の中にいると??
下手すると組織に飲み込まれてしまってそこから抜け出せずそこが全てになってしまい
大変苦しい思いをすることが多々ある。のではないでしょうか。みなさん。
今年2024年は4月〜11月まで毎月必ず北海道に行くようにしています。
なぜならそのすべてになってしまいがちな世界から意図的に抜け出すために。
去年はそういった働き方にケチつけられたて後半は怖気付いてしまって北海道に行く機会を作ることができなかった。本当に後悔した。そのときに心底思ったのが、
一体誰の人生を生きてんだよって。
私は私の人生を生きるし、
ケチつけてくるやつは申し訳ないけどテメーの人生を生きてくれって思った。
ケチつけただけでどうせ私の人生の責任なんかとらないだろうし。
私の人生における時間の使い方は、
私の責任下で私が決める。
以上。