生命力と奈落

沖縄に戻って3ヶ月。

変化は色々あるけど、その中のひとつに色っぽいお誘いをいただく率が激増した、っていうのがある。

上京前、沖縄にいたときはそんなことほぼ皆無だったので、以前より魅力的な女になれたのか、もしくは以前より軽薄そうな奴になってしまったのか。はたまた以前が致命的にナイーヴすぎたのか。
毎日些細なことで自尊心をズタズタにしては部屋でひとりヘッドフォンを装着し音楽に逃避する日々を送っていたかつての自分には不特定多数とリラックスしてコミュニケーションをとる心の余裕は著しく無かった、たしかに。

しかしなにより、沖縄自体が艶っぽい土地柄なのだろう。友人の話も浮ついたものが多い。こんなにあからさまに人間臭い地元の姿を私は永らくよく知らないでいたらしい。
初対面の年上の男性に訊かれる。「結婚してるの?」「してません」「彼氏は?」「いません」「彼氏いないのか、ばかやろう!」
笑いながら叱られる。その、おいおい何考えてるんだ、という感じの瞬間的なビートたけし的ばかやろうからは屈託のなさと恋愛モード・オン・ザ・ラン感が滲み出ていた。

よく誰かが浅かれ深かれ恋に落ちているのを、素敵だなあと思うのは正直なところ。
同時に、情が交錯してドロドロ複雑になっているらしき人間関係に、業が深いなあと思うのも正直なところ。

民謡がエロくてカッコよくて泡盛とセットだとトランスできる夜遊びミュージックだというのは最近知った。

ここは、音楽みたいな場所だと思う。

音楽は他者との境界線をなくして溶け合わせる、集合的無意識的な、西洋占星術でいう海王星的な、自由で垣根のない恍惚感をもたらすもので、だからこそ身分性別あらゆる要素関係なく誰の心にも力を与えることができるのだろう。
その音楽のように曖昧な境界線と渦巻く艶っぽいエネルギーに生命力と奈落とが見え隠れしている。この強い光と深い闇のるつぼは、恐ろしくも愛おしく魅力的だ、と思う。

ドープ。

憂鬱なヘッドフォン女子として然るべき時期にチャラチャラし損ねた身としては遊び歩く日々も楽しかろうと思わぬでもないが、30過ぎて今更そんな生活はじめるのもなんだかな、だし、あと、そんなに器用でもない。

客観的な自己分析は社会生活に役にたつ。でも主観的な欲望を「自覚する」ことはもっと大事で、大なり小なりその望みすべてが自分の選択における物差しになるし、逆にいうと物差しはそれしかない。
そう実感させてくれる人たちに帰沖前に出会えて感謝している。今ようやく、物差しが見えてきたところ。
自分の物差しがあやふやなままこの音楽みたいな場所で暮らすとたいそう寄る辺ない気持ちになるだろうし、かつてはそうだったように思う。もとい自分の物差しがなければどこにいたって遅かれ早かれ寄る辺はなくなるに違いない。

「なにそんな難しいこと考えてるの?」と言いそうな人も「今更そんな当たり前のこと言うの?」と言いそうな人もまわりにはいるわけだけど、その姿を思い浮かべるとどちらもアルコールを手にしていたりする。
アルコールもまた音楽と同じように他者との境界線をなくす。

強い光と深い闇のるつぼでエネルギーを得るか吸い取られるかは自分次第なんだろうな、と興味津々で自分の環境を眺めている。

#コラム #エッセイ #音楽

いいなと思ったら応援しよう!

Hiroko Arakaki
ありがとうございます!糧にさせていただきます。