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長銀団地という生き方 その11

長銀団地という生き方 その10 よりつづく

お花の準備をしていただく間、母を友人たちの輪に送り込む。みなさん泣きそうな顔で、「海鳥さん」「玉子さん」と歩み寄って来られるのを、
「スマイル!楽しそうな顔で!会えて嬉しいわ!で楽しくお願いします」とお声がけし、むせるように話す母に水を渡す。

母は久々にお友達に会えた喜びでニコニコである。

担当さんが、「あの、喪主様からのご挨拶の際、お母様にお位牌を持っていただいて、琴子様にお写真を持っていただいてでよろしいですか?」「母に無理はさせたくないので私と義姉でやります」「お花入れはどうされますか?」「母に無理はさせたくないので」と私がいうと、いつも黙っている夫の明が「それは絶対ダメだ」と主張する。「では様子を見て」と私は答えたが、母は、父が亡くなる前の晩、施設で突然固まってしまって、歩くこともできなくなり、二人がかりで寝室へ運んでいただき、看護師さんに連絡が行き、父のもとにいた私にも連絡が来て、という状態だったのだ。

BGMは「夢の途中」へと変わっている。

しばらくして「お花の準備が整いました。」のアナウンスが入る。
夫は母を連れに行き、両手を引いて歩いてくる。参列の方々に混じって、母は左手いっぱいに抱えた花を一心不乱になって、少しずつ少しずつ棺の中に右手で入れていく。

父はよく、「ママは妻とのしての役目を一生懸命果たそうとして・・」と言っていた。
その結果、ご飯を腐らせてしまったり、煮物を干からびさせてしまったりしていた訳なのだが、

これは、母が父のためにしてあげる、最後の「妻としての勤め」なのだとわかった。

棺はまず白の菊で覆われ、そして黄色のオンシジュームと紫の蘭、そして最後に無数の胡蝶蘭で飾られた。

何を思ったか、母は胡蝶蘭の下に隠れた黄色や紫を引っ張り出しては父の顔のあたりに並べ出した。

私は慌てて、「ママ、大丈夫だからね、綺麗にできてるよ」と言って引っ張り出された茎を再び下の方に押し込む。
担当さんは落ち着いて「最後に奥様が、お顔の周りを整えておられます」とアナウンスしてくれる。

棺の蓋を閉めるまでに、母の後ろに椅子が置かれ、棺の蓋が閉まった時に母は兄のちょうど隣に座った格好になった。兄が、家族を代表してお礼を述べる間、ちょうど母が隣で位牌を、そして私がその隣で写真を持つ格好になった。

兄の挨拶が始まる。

本日は故海鳥無縫の葬儀にご列席いただき誠にありがとうございました。
告別式にあたり長男一郎から一言御礼申し上げます。
本日お越しいただいたのは、ほとんど近所の方々ですのでその方々向けに、お話ししたいと思います。
父の故郷は山口県の周防大島というところでタイなどが釣れる魚やみかんの島です。昭和◯年◯月◯日に生まれました。
軍人を目指して広島の学校に通っていましたが、終戦を迎え、後は山口県の山口大学の前身の学校を出て、山口でお菓子の明治の前身の会社に就職しました。
そして同じ山口県出身の母玉子と結婚しました。
その後は転勤に伴う引っ越しが多く、島根県の松江で私と妹琴子が生まれました。
その後さらに転勤で大阪の寝屋川、さらに西宮市の甲子園球場の近くに住み、私の小学校入学直前に本社に転勤になって越谷へまいりました。
本社ではずっと人事畑にいたようで、父はそこから人付き合いを学んだのかと思います。
最初は宮本町1丁目の借家に住んでいて私が10歳ぐらいの時に宮本町5丁目のこちらに引っ越してきましたので、長銀団地でもかれこれ50年余りになります。
父は退職後ご承知の通り趣味に邁進しておりました。
もともと会社時代はゴルフに凝っており、釣りもやっていたのですが、退職後はヘラブナ釣りに熱中しました。
元々器用で凝り性なので、釣りのウキなども自分で削ったり塗料を塗ったりして作っていました。
父は、私の小学校の夏休みの宿題でも、手伝いを頼もうものなら凝りすぎて一発でバレてしまうので、とても頼めないほどでした。
それから社交ダンスも始めましたが、自分でステップの図を書いたりもしていました。
ビデオ撮影と編集も初めて、結局最後の趣味になりました。
また団地内でのカラオケや男の料理など、要は飲み会なのですがこういうものもご承知のように大好きでした。
父はとにかく自分が楽しもうというタイプであり、同時に周囲も楽しませていました。
そしてつねに好奇心を失わず、パソコンも最新のものを買ってビデオを編集したりしていました。
こういったことでご近所の皆様と遊んでいただいて、良い人生でした。
今年の3月に倒れて病院に入り、その後施設で暮らしていたのですが悔いのない人生だったと思います。
私の妻が4月から新しい仕事に就くので、3月初めに越谷に寄りました。
その時に父からこういうことを言われたそうです――人の輪に入って行って、みんなに楽しんでもらえるようにすれば、どんなところでもうまくやっていける――父も自治会や団地のお仲間とそういうつもりでやってきたのではないかと思います。
父は本当に周りの良い人に恵まれました。ご近所の方々だけではなく、介護の時には介護屋本舗さま、最後に入っていた施設のゆとり庵さん、介護屋本舗の方から紹介していただいたこちらのアートエンディングさん、生前から存じ上げてお願いしたがっていた迎攝院のご住職、みなさまに良くしていただき、ご会葬いただいて本当に良い最後だと思います。
皆様にもこれからも好奇心を持って楽しく健康に過ごしていただくこと、これが父の望んでいたことだと思います。
本日はお越しいただきまして、本当にありがとうございました。

長年の授業で鍛えられた声はよく通り、話の内容は丁寧でよく考えられており、間合いも絶妙だった。最後に父が義姉に手向けた言葉が紹介され、挨拶を締めくくった。

これまで聞いたどんなスピーチよりも素晴らしいスピーチだった。

実は、息子たちは「ご会葬御礼」の草稿を私に託した兄に少し腹を立てていた。「それはないんじゃない?」と。

でも、兄は、「私がやる!」と言った以上、私がやらないと気が済まないのを知っていたし、その後、修正すべき箇所があれば、そのようにすれば良い、というのを解っていた。

そして何より「海鳥 一郎」の名前で出すものを妹の私に託してくれた、というのは、それだけ私を信頼してくれている証であるし、
何より、私はそれを誇りに思っていいのだと思った。



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