長銀団地という生き方 その16
長銀団地という生き方 その15 より続く
我々も、そろそろ、それぞれの家に帰るとしよう。
兄とそれぞれのやることを確認して、荷物をまとめる。
駅まで送る途中に父の話になって「そういえば昔、僕に『天衣無縫』という言葉が一番好きだ、と言ったことがあって・・」どういう意味?と尋ねると、「天の衣は羽衣のように縫い目がない。誰かのどうこうしようという意図とは無縁という意味。」と答えた。「だから、父の名前は『無縫』さんにしよう。」と続ける。
葬儀の前に現れた夫と次男を兄を前に私が三人に対して「『それぞれ違って腹が立つ!』と言っていたけど、琴さんにとって、明さんはどういう存在?」と聞かれたことがあり、それに私は、う〜ん、お兄ちゃんに対しての形容詞はあるけど、明さんはね〜。うん「好敵手かな?」と答えたことがあった。
この1週間お互いに感ずることがあったであろう二人はそれぞれに、言葉を贈ることにした。「これは出典がわかれば、あげようと思っていた言葉なんだけど、『謹直なユーモア』という言葉をお兄さんには、差し上げましょう。」と私がいう。博識な兄も大江健三郎は読んでいなかったようで、私が密かに母の本棚から頂いてきた「恢復する家族」というエッセイの中で、光さんの主治医だった森安医師を評しての言葉だった。
兄は「では僕は琴さんに『天衣無縫』を差し上げましょう。」と言ってくれた。
帰りの道すがら、これまでのことを思い返していた。
父が亡くなる1週間前、看護師のサトさんから話があり、このところお父様がとてもはっきりしておられます。面会されたい方やお話ししたいことがあれば、今だと思います。と言われた。そこで私はお隣さんに連絡をし、翌々日の火曜日に、ご近居の尾羽毛さんと一緒に早速見舞って下さった。
私もそういえば父に言っていなかったことがあった。これだけは言わないといけないと心に決め、仕事の後ゆとり庵に向かった。ゆとり庵は、時間はいつでお大丈夫です。来られる時にいつでも来てください。と言って下さってあった。
父はこれまでにないくらいぱっちりと目を開け、話に頷き返してくれる。
「私が自分で好きなところは、だいたいパパからもらったところ」であることを感謝し、「長生きしてくれたこと」を感謝した。私たちが子供の頃、そして成人してからも父は家には不在のことが多く、孫たちができて、そしてその子らと一緒に旅行ができるようになって、そしてその子達の助けを借りて旅行をするようになって、私と両親との関わりは大きく深くなっていった。
今年の正月に母が「これがみんなで迎える最後の正月ね」と言い、
倒れる2週間前に父は「もう新聞も、偕行(幼年学校の同窓会の機関誌)も止めないといけないな」と言っていた。
なぜかは知らないけれども、両親共に、この日をちゃんとわかっていた。
母は、先程ゆとり庵に送る途中に目を覚まし「このところパパを見かけないのだけど、もう十日ほども会わないかしら?」と口にする。
「私は、1週間ほど前にお会いしましたけれども、お元気でしたよ。」と返す。「誰と一緒にいるのかしらね〜。」と再び云うのに、「ヤキモチですか?」と問うと、「もう嫉妬とか、そういうのはないのよ。どこにいても、誰といてもいいのよ。元気でいてくれさえすれば。」と言い、再び目を瞑った。
私は両親の関係を最後まで信じ切ることができないでいた。母はいつも父についてあれこれ言っていたし、父は何も言わなかったからである。
ついさっきも、みみちゃんに「あの二人が連理だったとはとても思えないのだけど」というと「お二人は鴛鴦(おしどり)でしたよ」と言ってくださるのを、そうかな〜と言って笑った程である。
入院が長引いた父がようやく退院する際に、ひと足先に母がお世話になっていた「ゆとり庵」と言うところに一緒にお世話になることになりましたよ、と報告すると、「これで安心だね」と、当時まだ比較的自由に物の言えた父が、そういった。そしてゆとり庵に移って、私が父から聞いたのはたった二言、「ありがとう」と「気をつけて」だった。
母は、これからずっとずっっと、父を待ち続けるのか?と思うとこれまで出なかった涙が込み上げてきた。
家に帰ってもただいまも言えない。ずっとグスングスンとやっていて、何か喋ろうとしてもわんわん泣き出してしまう。夫は、豚肉のトマト煮を作ってくれていて、パルメザンチーズを入れてみたとのことで、とてもコクがあって美味しかった。
翌朝は、夫がホットケーキを焼いてくれた。実を言うと、越谷の家を出る前に冷蔵庫の整理をしていた兄は、ホットケーキミクスがあるのを見つけ、私が、「もう捨ててもいいんじゃない?」というのを、「いつか食べるかもしれないから」と戻したのを、「じゃ、次の朝ごはんを一緒に食べる時に、焼いてあげよう!」と約束してあった。
こう言う偶然は私を本当に幸せにする。「ホットケーキミクスを使うと、僕が作るのより、厚くなりすぎんだよね〜。」などと言いつつ、たっぷりのバターを載せ、ホイップクリームをかける。コストコのホイップクリームは大量のクリームがすごい勢いで出てくる。それに笑いながら、山盛りのクリームの載ったホットケーキにいつものミルクティーを飲むと、ふうっと、日常に帰ってきた実感が湧いてきた。