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長銀団地という生き方 その15
長銀団地という生き方 その14よりつづく
飯田さんは優れた靴職人で、歌がお上手で、という話は、両親からもよく聞いていた。飯田さんは特に感謝していることが二つあるのだ、と眠っている母の隣に座ると話し始める。
一つは靴の話。元アイドルグループのメンバーだったM君がオートレースで悲願の優勝を遂げた時の靴が飯田さんの制作によるものだったというのだ。その、靴底がつく前の作品を父が写真に撮り、白い広目の縁をつけて素敵な絵葉書風に仕上げてくれた。ということで、その写真と絵葉書を持参されていた。
いや、写真でしょ?なにもそんなに大袈裟に感謝いただくようなことは、と思っていると、「この団地に、一流の職人がいる、ということを海鳥さんは誇りに思って、ずいぶん喧伝してくださったのですよ」ともおっしゃる。
飯田さんはその素晴らしい技術で取引先がどうしてもということでなかなか引退できずにいたのだが、この9月にとうとう、引退されたのだという。
「革を切る機械がどうにも怖くてね、それに、」とおっしゃる。長銀団地には珍しく腰の曲がったご様子だったのだが、横座りの姿勢で長く仕事をされた結果、腰骨の位置が左右で10cmもずれているのだという。
「でね、民謡は続けることにしたんです。」という。
飯田さんはその声の素晴らしさで父のカラオケ仲間の中でも抜きん出た存在であったのだが、ある時、父がこそっと「飯田さんは民謡をやるといいよ」と言った、というのである。要するに他の人はうまいうまいと褒めるばかりなのを、父は、その声の弱点と、伸び代を感じ取って、「民謡をやるといい」とアドバイスしたようなのである。ご本人も、ここが足りない、と感じられていたところだったので、「渡りに船」と師匠を探し、そこで発表会に出していただけるようになった、というのである。また、その民謡を聞いた父が「ここんところがもう一つだね」とご本人も納得がいかなかったところをちゃんと指摘してくれたことに偉く感謝されているようだった。
父は若い頃に色町に暮らしたことがあったようで、そういうものの良し悪しのわかる人であったらしい。
そんな話をするうちに母が目を覚まし、「飯田さんだよ、わかる??」「玉子さん、飯田ですよ!!」と手を取り合って喜びを交わし、楽しそうにおしゃべりしている。飯田さんの声は明晰で聞き取りやすい。耳がかなり遠くなっって、話の辻褄の合わないことの多い母が嬉しそうに相槌を打っている。
2・3分するとまたスーッと母は眠りに入る。そういうことを繰り返し、飯田さんは母との再会を約束して帰っていった。玄関先で曲がっていた腰が歩き始めるとスゥっと伸びる。
民謡は飯田さんの肉体にもポジティヴな影響を及ぼしているのだ。
郵便局での手続きを終えた兄も帰宅した。母をそろそろ、ゆとり庵に戻さないといけない。
母は、どこに帰るの?と聞く。「もう一つのお家に帰るんだよ」と私は答える。父という巣を失った母は、それ以上なんの質問も抵抗もなくスタッフの方に手を取られて帰っていった。
ついでに父のいた3階に立ちより、お世話になったみなさんにご挨拶をする。葬儀の顛末をお話しすると、みみちゃんは笑って、「お父様は私たちスタッフの間でも、大変人気者だったんですよ」と言ってくださる。が、どうして?どのように?「無縫さんはね、いつもあんまりものをおっしゃらずにニコニコしているだけだったのですが、おっしゃる時にはとびきり「粋」なことをおっしゃるんです」。
帰り際に私は兄に聞いた。「あのスカーフ、みみちゃんにあげて良い?」兄がけげんな顔をする。「今日のママのお支度、みみちゃんが手伝ってくれたの。」兄も納得の表情をする。
みみちゃんは、多分、父の最後の恋人だったのだ。