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「そこに、愛はあるんか?」 愛とお金の不思議な関係
別れ際の、愛
「そこに、愛はあるんか?」
もう何十回、何百回と聞いたこのフレーズ。当初は「わけわからんCM」と思っていたのだけれど、耳タコを通り越して完全に脳内インプットされるうち、ふとした瞬間、頭の中で再生されることに気がついた。
「このタオル、使い込み感出てきたな」→「そこに、愛はあるんか?」
「この服、もう着れないなぁ」→「そこに、愛はあるんか?」
「器にキズがついちゃった」→「そこに、愛はあるんか?」
「あの人、困った人だよ」→「そこに、愛はあるんか?」
そう。「もうだめだな」と線を引こうとしたその時に、なぜか毎度頭の中でこのフレーズが流れるのだ。誰がどんな意図でそれを再生しているのかわからないけれど(自分か!)、「そこに、愛はあるんか?」と問われるたび、切り離そうとしていた思考が一旦止まる。そして、愛を問われるのだ。
「このタオル、もうダメかな」なんて思っているところに「そこに、愛はあるんか?」と聞かれると、「長く使わせてもらったし、第二の人生、カットして布巾になっていただこうかな」という考えが芽生えてくる。
「この服、さすがにもう着れないなぁ」なんて思っているところに「そこに、愛はあるんか?」と聞かれれば、「たくさん着たなぁ。ありがとね、感謝してさよならしよう」と思えてくる。
「器にヒビ!もう使えない」なんて思っているところに「そこに、愛はあるんか?」と聞かれたら、「あ、金継ぎっていう手がある」と頭に浮かぶ。
「あの人、まったく困った人だよ」なんて嫌気がさしているところに「そこに、愛はあるんか?」と聞かれたら、「まぁ、悪い人ではないんだけどね」と思えてくる。
最後のひとつはちょっと路線が違うけれど、見切りの感情が芽生えるたびに頭に流れる「そこに、愛はあるんか?」は、「だからって、簡単にポイッとしていいの?」と聞かれているよう。なんだかんだ言ったって、長いお付き合いをしてきたモノたち。お構いなしに線を引くなんてできないな、と思えてくる。
愛、知らないうちに芽生えているのだ。自分のそばにあったものたちには。
出会いばなの、愛
こうなると、新たに何かを買うときだって慎重にならざるを得ない。
商品を手に取ったとき、「そこに、愛はあるんか?」と聞かれれば、一旦冷静になる。愛着の湧かない、愛の芽生えないものをそばに置くのはなんだかよろしくない気がしてくるのだ。気持ち的にも、モノ的にも。
お気に入りのものなら自然と大事に扱うし、何かと出番も多い。愛着の湧かないものは、どうしたって扱いがぞんざいになる。ひどい場合はもっていることすら忘れて出番もない。これではモノだって、「せっかくこの世に生を受けたのに、アナタに所有されたがためにこんなことになるなんて!」と思っているに違いない。
そう考えると、自分で買う場合に限らずモノをいただく場合・贈る場合も同じじゃないかと思えてくる。愛の芽生えないもの、愛おしいと思えないものを抱えているのは案外ストレスだ。愛を込めて贈られたなら、モノを通して愛をいただいた気がするけれど、そこに愛がなければモノはモノでしかない。気に入らなければ、愛の芽生えない、不要なモノになり得る。
昔、樹木希林さんが「プレゼントは要らない。むしろ迷惑」と言っているのを視たときは、なんて人だと思ったけれど、今はその気持ちがわかる気がする。人が大事にできるもの・愛着をもってそばに置いておけるものの量なんて、限られている。自分で持つ・持たないを決めなければすぐにキャパオーバーして、愛のないモノ・自分軸のないモノの中で暮らすことになる。それって、自分を失うことに繋がりかねないんじゃないか。
愛情を持って、自分で大事にできる分だけ持つ。案外、生きていく上で大事なスタンスなんじゃないかと思う。
愛とエコとお金の関係
持つモノを「愛」で判断するようになると、なんでもホイホイ買うことは無くなってくる。
ペンやハサミ、風呂桶や洗濯バサミなどの日用品でも、「一度買えば長く使うことになる」と思えばおいそれと買うわけにはいかない。ペンもハサミも風呂桶も、案外長持ちするし、壊れない。後々、心ときめくハサミや風呂桶に出会ったからって、まだまだ現役の彼らを差し置き新たなものを迎え入れたら、「私を捨てる気?」「頑張ってるのに!」と彼らの恨み節が聞こえてきそうだ。
自分で買った以上は現役真っ只中の彼らを突然放り出すような真似はしたくない。
買うなら、ちゃんと買う。買ったら、大事にする。多分これが愛あるモノの持ち方の基本だ。きっと、むやみに買うことも安易に捨てることも減ってくる。安いから買う、飽きたから買うのとは一線を画した、エコでお財布にもやさしいライフスタイルが身につくんじゃないだろうか。
耳タコをゆうに超えた「そこに、愛はあるんか?」が、回り回ってエコロジーやエコノミーにつながるなんて。誰もが謎に思うあのCMは、もしかしたら単なる「わけわからんCM」でもなかったのかもしれない。
恐るべし、「アイフル」。ってことなのか
あのCMが、実は「わけわからんCM」ではなかったのかも、と思う理由が実はもうひとつある。
モノを買うとき、手放すとき、「そこに、愛はあるんか?」と問われると、不思議と人はモノ選びに慎重になるというのは前述の通り。だから、買うなら長く使えるいいものを選びなさいよ、安もの買いの銭失いにならないように気をつけなさいよ、という話なのだが、そういうものはたいてい安くない。「まぁいいか」と気軽に買うものの2、3割り増しは当たり前。場合によっては2倍、3倍とお値段が張り、中には清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要な場面だってあるわけだ。
そこで何が必要になるかって?
そう、アイフルさんですよ。
手持ちのお金が足りないなら、私たちがいますよ。あなたにとって大切な「愛あるモノ」を迎えるのが今だというなら、私たちがいますよ。
と話が繋がってくるわけです。
いやぁ、恐れ入ったー!!
「わけわからん」と思っていたCMは、数枚、いや数十、数百枚ウワテだったというわけだ。
愛、大事だなぁ。