お金持ちの狭間で
なんの因果か、小学校から、世間ではお嬢様学校といわれている、聖心女子学院に入学した。校風もシスターも今でも苦手だが、上皇后さまは誇りだ。学年には首相のお孫さんやら、某ホテル創業者の一族やら、大使の娘やら、そんな人が多かった。普通のサラリーマンの娘でも、おじいちゃまがエライ方というのが定石で、まあ私も、多少はその口だったが、父親(正直、勤勉、真面目が、人間の皮をかぶっているみたいな人)が、平のサラリーマンのままだったから、兄弟3人(妹、弟が一人ずつ)私立に行ったうちはいつも火の車。食べるものに事欠いていたわけではないけれど、子供にとっては自分の属している世界がすべて。そこにしか規準がないわけなので、自分が貧乏であることを日々感じながら生活し、それが、現在までの、”負けてたまるか、なにくそど根性”人生につながっていったわけなのです。
小学校2年のとき、親友の高橋佳子ちゃんのうちに呼ばれたら、毛足が10cmほどもある白い絨毯に、白いグランドピアノ。おやつにでてきた飲み物が7upというアメリカの炭酸飲料(おうちが輸入していた)がでてきて、もう、目が点になりっぱなし。うちに帰れば、畳の居間や障子に茶室、縁側まである純日本家屋。佳子ちゃんちの欧風インテリアがうらやましく、帰ってきてから、うちが恥ずかしいと泣きました(馬鹿か!)。前述の叔母が、じゃあ、佳子ちゃんちには、20mもの砂利道があるのか、大きな門があるのか、と、たしなめられたのだった。
毎年春休みは、いまでいう会員制のペンションのような小屋(いや、清家 清さんの初期の代表作です)にスキーに行っていた。ある日スキーの話になったとき、前述の本間美佐子ちゃんと、佳子ちゃんが、スキーのビンディングが、バッタンと前に倒すやつ?と聞いてきたので、そうだと答えると、彼女らは大笑い。最先端は後ろから横へ、バチンと留めるものだったのだ。それを知らなかった私は、大恥をかかされた。そのうえ、スキーに行く際に上野駅でばったり。もう一人のイケてる戸室令子ちゃんと会ったときは、毛皮のブーツを履いて洒落た赤いコートを着ていて、こっちは一族郎党、長靴にヤッケにリュックといういで立ち。穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。
またある日、小学校5年の頃、パンタロンを持っているかと聞かれ(ちょうど、ピンキーとキラーズの今陽子のパンタロンが大流行中)、丈はどのくらいか?と。正直に、足首よりちょっと上を指すと、またまた大笑い。いわゆる、地面すれすれがカッコいいというわけ。まあ、日々がそんなだったから、負けん気の強い私が、いつか私も欲しい!買いたい!という“なにくそど根性”を身に着けたことは想像に難くないでしょう。