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オートクチュール

令和の今の時代は、ラグジュアリーブランドであろうが、ファストファッションであろうが、プレタボルテ(出来合いの製品)を購入するのがあたりまえ。オートクチュールをオーダーするなど、アカデミー賞でレッドカーペットを歩くセレブくらいのもの。ところが、昭和の50年代くらいまでは、オーダーして作ってもらうことが、今でいう、贅沢品としてのオートクチュールではなく、ビジネスの規模上、あたりまえのことだった。祖母は、吉祥寺にあった「マグノリア」という洋品店で、さまざま素敵なドレスを作っていた。子供心に、このフリルがいやだとか、店のオーナーと喧嘩しているのよく聞いたけれど、実に祖母の魅力を引き立てる洋服ばかりだったように記憶している。私もいつかはあんな服を作って着たいなと思ったものだ。
初めてのオーダーメイドは、中沢さんという、要するに、洋裁の好きなおばちゃんに、だった。どういう関係だったのかは? 祖母がどこかで知り合いになって、家に引っ張ってきたのだと思う(外人を見かけると、無理やり家に連れてきて、お茶飲ませたり、ご飯を食べさせるような人だったので)。チェックのスーツ(ブレザーとプリーツスカート)を作ってもらった。小学校4年の頃だったように思う。青がベースの田舎臭いチェックのツイードで、お世辞にもスマートなものではなかったけれど、それでも嬉しかったのをよく覚えている。
 中学高校、大学の間は、器用で洋裁好きの母に随分、たくさんの洋服を作ってもらった。分不相応にも、お金持ちの多い、クリスチャンの学校に小学校から大学まで行ってしまったため、仲良しと話を合わせ、ファッションリーダー(笑)たるためには、父のお給料では足りなかったわけです。
そこで、母と渋谷のマルナンや神田まで生地を買いに行き、私がデザインし、洋裁の先生に型紙をおこしてもらい、夜なべして母は縫ってくれたというわけ。見得のためだけのこの行為、ひどい娘です。でも、おかげで随分ほめられた。そのころ、大学の皆が通っていた広尾の美容院「フレンチヴォーグ」のオーナー古川さんはフランス仕込みのお洒落ゲイ。私が履いていた母お手製の黒のスカートを、「あら、それジヴァンシー?素敵!」などと言ってくれたのだから、家内制オートクチュールもまんざらではなかったわけだ。
一世を風靡していた、今はなき高級婦人服店十仁プラザ(わかる人にはわかる、なんという懐かしさ! 十仁自体は美容整形外科だったんだけど、アパレル部門も展開していて、1970年~1990年頃までは本当に素敵だった)のファッションショーで見た、布のベルト(グログランテープの繊維を途中までほどいて、縄状に編んだもの)で、ウエストマークするスタイルを真似したりと、見よう見まねの努力精神はなかなかのものでしたよ。


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