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カトリックという名の選民思想

聖心はカトリック教育を旨とした学校です。これが、まずかった。私のレジスタンス精神に火をつけた。人類、みな平等を謳いながら、それが真っ赤なウソであることがわかったのは、聖堂で行う、御ミサというキリスト教徒にとって最も大切な儀式でのこと。学校には信者と非信者がいるのだが、キリストの御体と御血をいただく聖体拝領という段になると、信者だけが、レースのベールをかぶって列をなして並び、麩菓子のような薄焼きクッキーのような小さくて平たくて丸くて白いものを、神父様が口の中に入れてくれるのです。なんともうらやましかった。食い意地が張っていたから、どんな味がするのかということにももちろん興味はあったが、それよりみな平等といいながら、おさな子をすでに、持てるものと持たざるもの、つまり、上と下に分類しているのだから。シスター方はそんなことはないとおっしゃるでしょうが、どう考えたって、食べられるほうが偉くて、食べられないほうが偉くない。
うちの学年がたまたまかもしれないが(いやそうではないはず)、総じて信者のほうがお金持ちが多かった。そして、生活が欧風化している。例えばご飯よりパンをよく食べるとかね。昭和40年代に、家でパンを焼くなんていう洒落た家庭は、カトリックか海外生活の長いひとしかありえない。きれいな布のナフキンに包んであるサンドイッチをほどき、ナフキンのすみで、ときどき手をふいたり口をふいたりする、小野容子ちゃんのエレガントな姿が今でも目に浮かぶ。私のお弁当はもちろん和食。のちに、人も羨む美味しいお弁当だということに中学校過ぎて気づくのだが、小学校の頃はサンドイッチを作ってくれと何度頼んだことか。給食の話題も、溶けるチーズ(グリュイエールか何か?)を食パンにのせて焼いたものがどんなに美味しいか、だったり…。もちろん国産のシュレッドチーズやスライスチーズが発売されるずっと前のこと。たまらなく食べてみたくて母と祖母に話したら、青山のスーパーマーケット「紀ノ国屋」かどこかで調達してくれて、とろーりとろけるチーズトーストを食べるという夢がかなった。
まあ、そんなわけで、カトリックの学校の中は格差社会。「聖心の子供は一つの家族」とかいいながら、大きな壁があったと、私は思う。そんなだから、シスターやカトリック教育に不信感を抱き、その後、シスター方とも、いたく折り合いが悪く(まあこれは、授業態度が悪かった私が悪いのですが)、まったく向かない学校に行ってしまったのだ(と思う)。
 が、恐ろしいもので、三つ子の魂百までも、で、大理石の廊下や美しい校庭、絵画、また、クリスマスのミサで謳われるハレルヤの調べなどだけはしっかり刷り込まれ、小学校の時から給食をナイフ&フォークで食べることが、なんとなく自慢だったりする嫌な自分もいたりして。そんなわけで、私のライフスタイルに対する価値観というものは非常に複雑に形成されたのでした。

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