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不動と流動とグラウンディング


自分軸の在り様はみんな違う

みんな違ってみんないい
って有名な一節があるのだが。
そういうことじゃなくて。

みんな当たり前に、違う。
「みんないい」なら、対極には「みんなわるい」もある。

そういうことじゃなくて。

みんな、みんなが、当たり前に、違う。
それはもう、思っている以上に。
認識している以上に。

同時に。
根っこのところは、みんな、同じだ。

稀に、臓器の配置が逆位置の人がいるという。
であっても、各臓器の機能役割は、同じ。

血液型が違っても、血流が命を生かすことは同じ。

種というものの基本構造は、同じだ。

もちろん例外は常にあるし。
そうでなかったらその種は滅ぶ。

だとしても。
同じ地球という星の上で生きるという点は、同じ。


一旦、そこまで離れてみて。
改めて、「個」に、戻ってみる。

誰一人、全く同じ顔の人はいない。
同じに見えるくらい似ていることはあるとしても、完全に同じではない。
使う言葉、感じ方、思考も指向も嗜好も、違う。

誰しも自分を基準にする。
そうするしかないから、そうする。
ただ、考えている以上に、自分と他人は違う。

価値観、世界観、美学、みんな違う。
そういう中で、人とうまく関係性を築くために、いろいろな手段をとる。

「軸」という考え方も、その一つだと思っている。

自分軸、他人軸といった具合に、基準点がどこにあるか...という雰囲気のことを指す。
場合が多い...と、思う。

では。
あなたは、自身の軸を、どのように捉えているだろうか。

何かに例えるなら?


軸の形の思い込み

まずは過去記事の引用。

軸とか、柱とか。
そういう表現をすると、そこには、どうしても、

「固体」「硬い」「不動」「堅固」

などの、がっしりどっしりして、動かない…または、動くけどすぐに戻ったり、振動を吸収できたり…といったものがイメージされるんじゃないかな、とか、思う。


だけど、そうじゃない。
私は、そうじゃないと思うんだよ。


その人の性質により、軸や柱の様相は違って当然。

それは、石か木かコンクリートか煉瓦か…といった素材の話だけじゃない、本当に、本質的な違いがあると思うのだ。


私が知っている…まあ、私の勝手なイメージでしかないけども…。

知っているのは、粒子の集合体のような感じの軸。
一本通った…といった構造とは根本的に違っている。
それは、無数の魂DNAを一つ一つが備えた、小さな小さな粒子が集まっていて。
粒子は相互に共振しながら連携というか、一つの魂としての軸を構成している。
しかし、粒子同士は接続されてないので、自由に動ける。
動けるけど、共振してるから、全体で一つを実現している。

小さな魚や、渡り鳥の群…みたいな感じかな…。


異物が飛び込んできた時、個々の粒子達は一旦ばっと散開し、それを共振させることで素性を感知していく。
馴染む振動を相手が送ってくるようになると、「自分じゃないけど、自分」と感じるようになり、親和する。

しかし、馴染む振動を返してこないとわかると、放逐とか排除とかではなく、群れ全体がそっと移動して、ただ、離れる。
くっつき合っていないから、粒子達は相手に触れずに、双方に安全に、離れることができる。

そういう魂軸の持ち主を、知っている。
もちろん、私のイメージだけど。


そういう人が意外と陥るのが、世のイメージにある「軸」「柱」の不動感…それが自分には無いと感じて苦しむってこと。

無くて当然なんだけどね、そういう構造じゃないんだから。
でも、軸だ柱だと言われると、誰しも不動のものだと思いやすいから。

流動的な軸、柱…というのが構造の人が、不動を求める…というか、そうでないと軸じゃないと思いそうなろうとする…というのは、海の生き物が進化を経ずに陸で生きようと試みるくらいに、無茶なんだけど。

なかなか、そんな風に考えたりはしないから…なんだか、すごく、しなくてもいい苦悩を苦しんでるように思える。


ふわふわ浮いていても、共振し合って全体て一つの魂軸である…というのは、ある意味無敵だと思うんだな。
外部から破壊されることがないのだから。
霧を裂こうとするようなもんだ。

けど、魂DNAを自分で変質させようとしてしまうと、それは共振として全体に波及してしまうから、軸そのものが病んでしまう。
個々の粒子達がそれぞれ弱ってしまうと、共振の力が弱くなり、全体でなくなってしまう。
ばらばらになっていく。


そういう人は、不動を目指す必要なんか、全然、ない。

流動だからこそ、全体として魂軸で在る。

大地と繋がれていなくても、共振し合っているから、どこにいても、母星と一体でいられる。

例えはどうかと思うけど、コードレスホンの親機と子機みたいなもんだ。
共振し合っている限り、互いに受信し合って一つの存在でいられる。


他の何かになろうとしなくてもいい。

軸は不動なもの、というのは、そうした構造の人にしか当てはまらないのだから。

無理に構造を変えようとして弱る必要なんか、ない。

流動軸を持つ人のグラウンディングは、それぞれの共振を高め合うこと。
大地に繋がれようとするのではなく、大地との共振を高めることだ。

旧ブログ“手が知っている異界の彩”より
「粒子の流動軸」
投稿日:2013-07-19
https://ameblo.jp/kawazo1151/entry-11576077987.html


今、思うこと

過去記事は、流動軸と不動軸があるという前提で書いている。
あれから11年の追加年数を上乗せした現在。

わたしは
【不動軸を持つ者も、そのように自ら定めている自己定義であり、基本的には皆が流動軸である】
と、考えている。

だから、
「軸とは不動のものである」という観念が何かの拍子で揺らいだ時は、一旦その揺らぎを観察するのがよい。
と、思っている。

その揺らぎは、かなりのストレス下で起きる場合が多いと思う。
あるいは、揺らぎによってストレスが引き起こされるかもしれない。

いずれにせよ、不安や恐怖に囚われやすい状態に置かれていると思う。

ただ、そこで慌てて
「そんなわけない!軸が不安定なんて、そんなことでいいわけない!」
って無理に戻そうとしてしまうのは、もったいない。

あなたの軸を教えてあげる!
みたいな人が近づいてきたら、関わるべきじゃない。

自分に「もしかして...」という感触がある場合には、それを吟味する手助けをしてくれそうな誰かに相談するのはよいと思う。
ただ、相手選びは慎重に。

軸の在り様の自己定義が変わるというのは、そうそう起きることじゃない。
だから、珍しい体験ができる時だ。
楽しもう。

そして。
軸の在り様を少しでも観察できるようになると、
「グラウンディング」が、よく言われるイメージとやや違う印象になる。と、思う。

引用した過去記事の末尾に
「流動軸を持つ人のグラウンディングは」
って書いているが。
皆が流動軸であると考えている今、この表現も少し変わってくる。

さて。
あなたなら、どう表現する?

一旦、ここで記事を区切る。
グラウンディングについて考えてきたこと、今考えていることは、また次回。


あなたに、たくさんの幸アレ!

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緋呂@ひとりからはじめる天下泰平
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