雨が好きな話
これまでの記事とは一変します。笑
それでも良いのがnoteの良いところですよね♪
雨と私 〜old story〜
雨 rain
上空で水蒸気が冷えて、水滴となり重力によって落ちてくるもの。
多分そんな定義なのではないだろうか。
そんな雨が私は昔から好きでした。
何故だか理由はわからないですが、ただ漠然と好きだったことは覚えている。
思い返すと、昔やってたスポーツも雨の日の方が調子が良かった気がする。
大好きだったおじいちゃんが見にきてくれた、小さなスイミングスクールの県内水泳大会で、初めて表彰台に乗ったのも雨の日だった。
(そのスイミングスクールがマイナーなせいで、大会優勝したのは晴れた暑い夏の日でしたが。笑)
サッカーの大会で、GKの友人がヘルニアが完治しておらず試合に出れなくなり、急遽CBの私がGKとして試合に出て奇跡的に無失点だったのも雨の日だった。
(私の公式戦初得点は寒い冬の日でしたが。笑)
あれ、そんなに調子が良くないのか…?笑
でも、何故だか嬉しかった思い出はよく雨が降っていた。
豪雨ではない、小雨でもない、雨。
特段、雨男でも晴れ男でもない私は何故雨が好きなのか。
雨と昔の私について考えてみた時、共通点?らしきものが見えた。
それは、誰かのためと理由をつけたつもりで、目の前のことに頑張ろうとしていた気がする。
おじいちゃんが見に来てくれてるから、試合に勝って友人にもっとサッカーをして欲しかった、きっとそういう理由だったのだろう、当時は。
しかし今思うと、おじいちゃんに良いところを見せたい、友人ともっとサッカーがしたい、そんな自分自身の思いを勘違いしていた気もする。
でも、私の大切な人たちが笑顔で喜んでくれていたあのシーンは、思い出となり美化されたことで、当時より綺麗で印象的となっていた。
そしてどちらも、その好きな人が私にタオルをくれた。
雨に濡れた私の頭を優しく強くくしゃくしゃにしてもらえたことは、多分一生忘れないのだろう。
そんな私と私の大切な人とのある種の2人だけの空間をくれた、そんな雨が私は好きだったのだと今は思う。
雨と私 〜present story〜
私が大きくなるにつれ、雨との印象的な思い出は減っていった。
それでも雨は何故だか好きだった。
わがままな私は、雨に降られることは嫌ったが、雨が降っていることは好きだった。
特に梅雨、ちょうど今くらいの季節が1番好きだった。
私の母は花が好きで、その影響で私も花が好きになった。
母は向日葵が1番好きと言ったが、私が1番好きなのは紫陽花だった。
雨が降りみんながいつもより足下を向いて歩く中、紫陽花の花がどこか落ち着いた大人に感じ、あの淡い色から、優しさや儚さを感じて私の心も落ち着くからだ。
そんな紫陽花の綺麗な季節、梅雨の季節が好きだった。
でもそれだけではないように感じていた。
そして、それを何となく掴めたのが映画『天気の子』との出会いだった。
天気の子では、私の大好きなRADWIMPSが音楽で参加しており、特に『グランドエスケープ』の冒頭が、私の思う”雨”に最もイメージが近く感じた。
雨をイメージしたであろうピアノ?が細かなリズムで流れるイントロから、三浦透子さんの優しく透き通った声がゆっくりと始まる、あの部分。
あれがまさしく私の”雨”だった。
傘をさすとより感じるが、雨はいつもパラパラ、ザーザー、ポツポツ、様々な音を立ててどこか忙しく私たちに音を届けている。
でも、私たちの歩みは傘をさし「今日は何故雨なのか。」とどこか気怠げに、いつもより遅くなる。
そんなギャップがどこか心地良かったのだ。
私たちには各々に、意識的なものから無意識なものまで様々な習慣、リズムが存在していると考えている。
イマドキな言葉で言えば、ルーティーンと言われるのもその一つだろう。
どちらかといえば、このリズムが崩れると私たちは「焦る」ことが多いと思う。
急な来客、突発的な仕事の割り込み、抜き打ちテストから、突然の告白まで。
でも、そうでない場合もあり、その代表格が”雨”だと思う。
雨で焦ることも多くあるので、一概に言えないことはわかるが、いつもと違う状況なのに私たちの歩みは焦りではなくゆっくりとどこか落ち着く方向に傾くことがある、それが雨だ。
降られると決して嬉しくない雨が、私を、私たちを落ち着かせている。
それをふと感じた時に、何故か少しだけ安心できる。
「最近早歩きが増えてない?もう少しだけゆっくり歩いてみたら?」誰かにそう言われている気がして。
もうきっとそれすらも日常のリズムとかした今の私には、感じることが難しいときもあるが、数年前一人暮らしの学生時代は、このリズムのある種良い方向へのズレをよく感じ取っていた気がする。20歳を超えているにも関わらず、今日は傘をささずに帰ってみようと思い濡れて帰る日もあった。
もしかすると私にとっては、このズレを感じることが、自分を整えるリズム・習慣なのかもしれない。
雨で感じる私の最大の武器
ここから論理を飛躍させていく。笑
雨と私は幼い頃から(私の片想いかもしれないが)心を通わせてきた。
幼い頃は、大切な人との大切な時間をくれた。
大きくなるにつれ、自分のリズムを整える機会をくれた。
ここでふと、大好きな映画を思い出した。元は小説で伊坂幸太郎さんの作品、『ゴールデンスランバー』だ。この作品では、私の大好きな小さな哲学?にさせてもらっている言葉が出てくる。
人間の最大の武器は、習慣と信頼だ。
確かこんな感じだった気がする…笑
違ったら申し訳ない…
この言葉で私は、自分の武器が習慣と信頼であると錯覚した。笑
ただ、間違っていないとも思えた。
習慣は常に自分のパフォーマンスを高く維持することに貢献してくれるため、結果として武器となりうる。
信頼も特に私は何か大きな取り柄があるわけではなかったが、周りの人にだけは恵まれていたため、これまでの人生最大の武器だったことに疑いはない。
そんな私の最大の武器を思い出させてくれる存在、それが私の"雨"だったのではないだろうか。
大切な人との信頼関係を感じさせてくれた、雨。
自分のリズム・習慣を整わせてくれた、雨。
雨を感じることで、私にはまだ武器が残っていることを思い出させてくれる。そんな私の雨。
紫陽花から感じた、あの柔らかい優しさは雨を多く受けていたから、紫陽花だけが身につけたものなのかもしれない。←これは超理論。
そんな雨が私は好きだ。
最後に
今回の小さな哲学は、伊坂幸太郎さんからの引用です。
人間の最大の武器は、習慣と信頼だ。
あくまでこれは私の武器だが、多くの人に当てはまるのではないだろうか。
習慣は大それたものである必要はなく、信頼は人間・生き物に限る必要もない。
たとえあなたがどれだけ追い詰められようと、あなただけのリズムと頼れるものが、つまりはあなたの最大の武器がまだ何か残っていると、私はそう思っています。
もし、追い詰められていると感じたのであれば、あなたはきっと脳ある鷹で、気付かない内に爪を隠してしまっているのだと思います。
たまには、雨に降られながら、顔を上げて道端の紫陽花を見てみてください。
もしかすると、あなたの武器を思い出すヒントが咲いているかもしれません。
道端でもし突然立ち止まり、紫陽花を見つめている人がいたら、もしかしたら私かもしれないので、優しい目で見てください。
変なことはしていないので。笑
というか今更だけど、紫陽花の話するなら紫陽花の写真撮りに行ってからにすれば良かった。笑