1.はじめに:廣木涼
私、廣木涼は、マジシャンであり、推理作家でもある。
いずれも、売れっ子というわけでも、有名というわけでもなく、細々と活動しているのだが、マジック業界内には文筆家が少なく、しかし筆をもって伝えるべきことは多い。
そういう事情から、私に執筆の依頼が来るようにもなり、私自身も、マジック業界の文筆家として密かに使命感を持つようになってきているところである。
自分が生活するぶんには、細々とした活動でも充分であったが、マジックを生業にする身として、やはり業界の発展に貢献したいと思う気持ちは強く、様々なマジシャンたちと協力して、各人の持つ知識や情報を共有するべく、こうして筆を執っている。
私がこのテキスト「なぜその職を選ぶのか?マジシャンたちに聞く!」を書くのは、現役で活動しているマジシャンたちがその職業に就いた経緯を紹介することで、マジシャンを目指す人々の背中を押すことができるのではないかと思ったからである。
マジック業界を発展させるにあたって、マジシャン人口を増やすという課題は常にある。
どんな業界であっても、そこで働く職人がいなくなっては、その業界の未来はないだろう。マジック業界も例外ではない。
もちろん、ただいたずらに人数だけを増やせばよいという話ではなく、各マジシャンの質を高めなければならない、有機的に連携しなければならない、倫理感や哲学を持たなければならない、などの課題は別途あるだろう。
私は、マジック業界の筆者として、そういった課題を解決していく立場にある。
本書は、様々な課題の中でも、マジシャン人口を増やすという点を目指したものである。
マジシャンを目指す人々は多いが、しかし収入面を気にしたり、あるいはどういう活動をすればよいのかがわからなかったりで、目指してはいるがあと一歩が踏み出せない、という話をよく耳にする。
そういう人たちの背中を押すには、何が必要なのだろうか、と私は考えた。どんな情報があれば、あと一歩を踏み出すことができるのだろうか。
あるいは、何の情報も後ろ盾もない状態であってもその職に就く覚悟があることが、成功するための道筋であるかもしれないし、現状でマジシャンになっている人の多くはそういう覚悟があったことだろうが、しかしそういった不退転の覚悟を持った人だけしか受け容れられない業界では、大きな発展が望めないようにも私には思えた。
間口を広げて、多くを受け容れる土壌を作ることは、どの業界でも行われていることであり、マジック業界の発展にも繋がることだと私は信じている。
そういうわけで私は、あと一歩を踏み出すための情報を提供するべく考えを巡らせ、現役マジシャンたちが、どのような第一歩を踏み出したのかという情報こそが、マジシャンを目指す人々が求める情報なのではないかと思うに至る。
このテキストでは、プロやセミプロのマジシャンにインタビューをし(プロやセミプロに定義はないが、便宜上、収入を得ないマジシャンをアマチュア、収入を得るが専業ではなく収入源としてメインではないマジシャンをセミプロ、専業であるか一般サラリーマンと同等以上のマジシャン収入がある兼業マジシャンをプロ、と呼ぶことにする)、マジシャンという職業に就いた理由や、どのようにして活動を始めたかなどについて答えてもらっているが、主に次の5項目が含まれている。
① マジックを始めたきっかけ
② マジシャンになった経緯
③ 今の活動内容
④ これから目指すこと
⑤ マジシャンを目指す人へのアドバイス
16人のマジシャンの言葉を紹介する予定であるが、あなたの背中を押す言葉が、きっとあるはずである。
マジック業界の文筆家:廣木涼
私、廣木涼がマジックを始めたのは、高校1年生のときであった。
当時、ナポレオンズがマジックのやり方を教えてくれるテレビ番組があり、それを見て覚えたのが最初であったように思う。高校で、昼休みにクラスメイトに見せるのが楽しみで、懸命に練習したものである。
やや目立ちたがり屋の性分であったので、音楽のテストの時間に、ステージ上でひとりずつ歌わせられるのをいいことに、歌いながらマジックショーをやろうとしたのだが、歌い出しの時点で音楽の教師に激怒され、シカゴの四ツ玉を取り上げられたのも、いい思い出である。
私の通った高校は、「おもちゃ」を持ち込むことが禁止されていたので、「おもちゃ」であると判断されれば没収されていたのだ。したがって、トランプも没収の対象であり、コインや新聞紙やティッシュを使ったマジックばかりしていたように思う。
大学時代や会社員時代にも、趣味としてマジックを続けていたので、飲み会のたびに出番があったし、友人に結婚式に呼ばれるたびにステージに立った。
一番大きな舞台は、会社のサマーフェスタのステージに立った時で、3000人以上の地元住人の観客が入っていた。その経験はもちろん今も役に立っている。
そんな私が、職業マジシャンとなったのは、アマチュア活動を20年以上続けた38歳のとき、2015年のことだった。
脱サラをして無職となった私は、マジシャンになろうと考えていた。
理由を求めるとすれば、マジックが好きだから、そして、マジックというスキルを持っていたから、という程度の理由だったような気がする。
マジシャンになる方法はわからなかったが、ネットで調べると「プロマジシャンだと名乗ればプロマジシャンである」という記事があり、私はさっそくブログを開設し、「プロマジシャンになる」と書いた。それが38歳の誕生日のことである。
ちなみに、同時に「小説家になる」とも書き、それから4年が経過しようとする今、2冊の小説を出版し、4冊のウェブテキストを書き上げるに至っている。
小説家の件はおいておくとして、こうして38歳の新人マジシャンとなった私ではあったが、どのような活動をするべきかもわからなかったし、何より、自分のスキルがどれほど通用するのかもわからなかった。
友人知人にいつも見せていたとはいえ、お金をもらってやっていたわけではない。
果たして、お金を貰えるに値する腕前を私自身は持っているのだろうか。
その確認方法については、すぐに思い当たった。
ストリートマジックを演じてみて、
「お金を出す価値があると思っていただけたら投げ入れてください」
とチップ箱を出す、というのが、その確認方法である。
道行く人々が、お金を投げ入れてくれるのであれば、有料の価値があるということになり、しかも、値段までもが明確になるのである。
しかし、それを始めるにあたって、いくつか不安に思うことがあった。
ひとつは、日本ではチップという文化がないので、果たして正当な評価額が算出されるのだろうか、という不安。
もうひとつは、マジックが下手でも、話が上手ければ、マジックの腕前以上のチップが得られ、私は自分の実力を見誤ってしまうのではないか、という不安だ。
この解決案もすぐに浮かんだ。
日本ではない場所でやればよいのである。
ある程度チップの文化があり、母国語で流暢に話せない場所においてストリートマジックをやれば、かなり正確な評価を得られるはずだと私は考えた。
そこでチップを得られれば確かにマジックの腕前を評価されたことになるし、また評価されたからにはチップが入る、ということになる。
そういうわけで、私はすぐにヨーロッパ行きの飛行機のチケットを手配した。
後から振り返れば、ヨーロッパは決してチップ文化が浸透している地域ではなかったので、ややミスチョイスではあったが、お互いにカタコトの英語で会話をするのが、逆にちょうど良いコミュニケーションだったように今は思っている。私も英語は得意ではないし、イギリス以外のヨーロッパ人も、英語は日本人と同程度である。
プロマジシャンだと名乗った後、私が最初に活動したのはオランダの公園である。
公園のベンチに座っている人に声をかけ、マジックを見てもらい、楽しかったらチップを入れてもらう、というやり方で、『ベンチホッピング』と私は呼んでいる。
はじめは、マジックを見てもらうことも困難であった。
それもそうだろう、そこに住む人々から見れば、私は怪しい外国人なのである。
しかし、どうやれば見てもらえるかと考えながら、ドイツ、ベルギー、フランスと場所を変えながらやっていくうちに、徐々に見てもらえる回数が増えていき、チップ額もだんだんと増えていった。
はじめてチップが入ったのはドイツのケルン大聖堂前であったか、ベルギーのグランパレスであったか、20セント硬貨(30円弱)が入っただけでも、とても嬉しかったものである。
そして、イギリスに行く頃には、1日に80ポンド(15000円ほど)を貰えるようになっており、私は良い手応えを感じながら帰国することができた。
ちなみに、もし手応えを掴むことができなければ、マジシャンになるという夢はすっぱり諦めるつもりでいた。
38歳のオールドルーキーは、「今はダメでも大器晩成だ」などと言ってよい立場ではなかったからである。
即戦力でなければ許されない。であるからこそ、私は過酷な環境に身を置くことで、即戦力となるよう急成長せねばならなかったし、多くの場数をこなさなければならなかった。
帰国後、私は手応えを確認し、自分のものにするために、さらにストリートマジックを続けた。
そもそも路上で演じることは、私自身が、
「誰かやってくれれば見に行くのに」
と観客として思っていたことであり、誰もやっていないから私がやった、ということになるが、路上で演じると、観客たちには、
「生のマジックを初めて見た!」
と目を輝かせるので、私はこの路上活動がとても意味の大きな活動だと思うようになった。
マジックが好きな人は、マジックバーに行くこともできるが、しかしこの目を輝かせる観客のように、マジックの楽しさを今はじめて知った、という人は、楽しさを知るより前にマジックバーに行くことはできない。
しかし、楽しさを知った今ならば、マジックバーに行くという選択肢が生まれる。
このような路上活動を続けていく事が、マジックの観客人口を増やすことに繋がり、そしてマジックバーの来客が増え、マジック業界が発展することになるのだと、やっていくうちに私は感じるようになった。
こうして私は、ストリートマジックにやりがいを感じながら、札幌、福岡、東京、横浜、那覇、大阪、京都、奈良、仙台で演じて回った。
ベンチホッピングもよくやったが、テーブルを置いて集まってくる観客に演じる、という方法でもやっている。
英語圏の国としても、オーストラリア、アメリカでも演じたが、このときは、ほとんどお金を持たずに行った。
現地で得たチップを現地で使うつもりでいたし、それができなければ死んでしまうくらいの危機感があってこそ、本気で取り組めるし、成長もできると思ってのことであり、結果として、お金を持たずに行き、お金を持って帰ってくることができたので、このことは、今現在のとても大きな自信に繋がっている。背水の陣とは、自分の力を何倍にも増幅できる策なのだと、経験を通じて私は知ったものだった。
仙台やアメリカには行く前のことだったので、時系列はややオーバーラップするが、私はそのようなストリートマジック活動を、ずっとブログに書き続けてもいたし、YouTubeなどにアップロードしてもいたので、それを見た読者から仕事を紹介される、という転機が訪れたのも、幸運でもあったし、時間の問題でもあったのかもしれない。
活動を続けていれば、何かしら実るものである。東京で、居酒屋チェーン店と提携して、チップ制のマジックを演じるというマジシャンのグループがあり、マジシャンの人数が足りないという事情があって、ブログ読者経由で私に話が届いたのである。
この紹介を受けて、私は居酒屋で仕事をすることになった。
『テーブルホッピング』といって、居酒屋の各テーブルを回り、マジックを演じてチップを貰う仕事である。
チップを貰う仕事には慣れていたので、私はすぐに要領を得、そのグループの中でも稼ぎ頭になることができた。
オールドルーキーとして後れを取らずに済んだことを私は内心ホッとしたものである。
このグループは、仕事ぶりをランキングにされるというルールであったことが、私にはまた幸運なことであった。
連続して上位ランキングされた私は、他のグループにも所属するマジシャンの目に留まり、さらに良い仕事場を紹介してもらえることとなった。
そして、その新しい職場でテーブルホッピングをやっていると、マジックを見せた飲食客から、
「私が経営しているお店でもやってほしい」
と言われて、また仕事場が増え、仕事には困らなくなった。
居酒屋でのテーブルホッピングという仕事も、ストリートと同じく、マジックを見たことがない人に対して演じることが非常に多いので、マジック業界の発展に繋がる意識を感じながら仕事ができているという点で、とてもやりがいのある仕事である。また、チップ金額も、路上のときよりもずいぶん多いというメリットもある。
職業マジシャンとしての活動を始めてから、そろそろ4年が経過しようとしている。
現在も、テーブルホッピングの仕事を続けているが、ストリートマジックと執筆業と、3軸同時進行で進めているところである。
私はそのような経歴を持つマジシャンであり、まだ名前が売れているわけでもないし、現場で細々と活動している身である。
そのような身ではあるが、今からマジシャンを目指す人に向けて、私自身の経験からアドバイスできることはあると思っている。
やりたいことがあれば、実践してみること、というのがそれである。続けているうちに、実るものは必ずある。
私がこのテキストを書いているのも、小説を書いたという事実と、マジシャン活動をやっていたという事実があり、その実績を見込まれたことが発端である。
テーブルホッピングの仕事が舞い込んだのも、ストリートマジックを演じ、ブログやYouTube活動をやっていたからであるし、次の職場を紹介されたのも、最初の職場で結果を残したからである。
はじめからそれを求めていたわけではなかったとしても、今できることに真摯に向き合っていけば、知り得なかった情報が入って来るし、見えなかった道筋が見えるようにもなる。
最後に、マジシャンを始めるのに、何歳になっても遅すぎるということはない、と私はアドバイスしたい。
オールドルーキーをこそ、私は応援したい立場である。
夢を持つ子供は多いものだが、その夢を年をとっても持ち続けていられることは、それこそ夢のように素敵なことだと思わないだろうか?
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