デッドボールがあるから生きていける。
そりゃ、はじめての軟式ボールで、はじめてのデッドボールですもん、泣いて転げ回りたいよね。コーチとかに囲まれてベンチ運ばれたいよね。ぷしゅーってコールドスプレーとかされたいよね。憧れのプロ野球選手みたいだもんね。
わかるよわかる。
ただ、ヒジをかすった程度だったよね。キミも言ってたよ。
5歳児「かたーいボールが当たって痛かったの!右か左かどっちかの腕に!」
まあ、程度はどうあれ「事件」となって盛り上がってしまったので、「重傷」の本人は試合に戻りづらくなってしまったわけなのですが。
結局、印象的だったのは、コーチの一言です。
「怖かったよね。気持ちくじけちゃうよね。もうすぐ痛くなくなるよ。大丈夫だよ」
保護者のママたちが、母親の微笑みで優しい声をかけてくれます。そんな後、コーチが、うちの5歳児の腕を握りながら言いました。
「痛かっただろ。プロ野球選手が痛いのわかっただろ。野球は痛くて難しいんだ。だから練習しような」
コーチに温かく励ましてもらえるつもりだった5歳児も父も、真顔のコーチの言葉に、急にピシャリ!となりまして。そしてコーチは僕を見つめて告げたのです。
「お父さん、これも野球ですから」
その時は「…はい」としか言えませんでしたが、今頃ハッとしています。
そういや「痛みは大前提」でした。
この大前提こそ、スポーツが人に教えてくれることの最高の価値のひとつ。「痛み」あってこそ「痛み」を味わってこそ、勝敗や記録に意味が宿ります。
そして、スポーツに限らず、生きていくすべてにおいて「痛み」あってこそ、生き様は躍動するのです。
もちろん「痛み」を自ら求める必要はありません。長く生きていくことで「痛み」を回避する経験知を蓄えることは、本能的に動物的に大切です。
ただそれでも「痛み」に見舞われたとき、でも、それが耐え難き致命的な「痛み」でないならば、「痛み」を受け止めてみる、つまり自分の生き様で「痛み」を包容してみる、というのは、またひとつ成熟した大人になるための「正攻法」なんだろうなと。そう、痛感したのでした。