障害と自分とのかかわり
こんにちは。
自分語りをそろそろ終わりにして、本題に入っていきます笑。
と思いましたが、これも実際自分の経験談。
もはやこのnote自体自分語りだなと思ったので、こういうことを書くのはやめにします笑。
今日は「障害」について。
私はこの「障害」について、なんだか他の人より身近に存在しているようにしてならないのです。
初めて自分が「障害」の存在に気づいたのは…というか、学んだのは、小学校高学年の時だったと思います。
身近にあるバリアフリーや障壁となるものがあるということを学びました。
今でも忘れられないことがあります。
視覚障害を持った方をゲストスピーカーに迎え、お話を聞く機会がありました(確認ですが小学校時代です笑)。
僕はそこそこお勉強ができていた(と思っていました)ので、
少し知識を盛り込んで、「健常者が障害者に対してやれることって何がありますか?」というような質問をしました。
その人の返答は「私は健常者・障害者という言葉が大嫌いです。健常者がやれることって言われても、障害者でもできるし…って思うことがたくさんありますね。」でした。
その人の表情はとても険しかったのを今でも覚えています。
「あぁ、この人たちも生きてるんだよな。そりゃぁ、別にしてもらうスタンスでいてもらっても困るしって感じなんだろうな」と思いました。
そしてそこから十数年…
大学院を修了し、就職をするとなった際、採用試験に合格できていない私は非正規で教員をやることになりました。
私の保有している免許は保健体育科でしたが、保健体育科の教員は(今でも)飽和状態。
保健体育科の教員になれる人はごくわずかで、ほとんどの人は他の校種や、非常勤講師という契約で仕事をしていました。
僕もその例外ではなく、特別支援学校に勤務することになりました。
知的障害をもった子どもたちが集まる学校。
当然ですが、自分とは「違う」子どもばかりでした。
でも、小学校の時の学びがあった僕にとって、この「異質な」世界は
苦でありませんでした。
むしろ他者と比較するようなことがほとんどないし、とても平和(平和じゃないこともありましたが笑)。
そしてそこで学んだこと。
その学校では、社会に出たときのことを強く意識していました。(※やり方は納得いかないこともありましたが、そこは教育法や思想があると思うので割愛します)
学校というものは、学校生活というものを楽しく充実させるということももちろん大事だと思います。それにルソーの言う通り、子どもは小さな大人ではありません。
しかし、子どもたちが共通していることは、社会に出ることだと思います。
障害を持った子どもたちも、属する社会は異なるとしても、社会に出ます。
ですから、学校生活の中で、それがすべてではないとしても、
社会へのつながりを意識してた教育が必要だと思います。
まとめると、自分の人生の中で障害とのかかわりを通して、
どんな人も、自己がある(自分が主役だという意識がある)
それに伴って人それぞれの違いや異質は認められるべきものである
学校教育において社会へのつながりを意識することの重要性
を学ぶことができたと思っています。
これだけかよ!となるかもしれませんが、色々とそぎ落としてこれです。当時の話をするなら酒を片手に3時間くらいは話せます笑。
改めて経験を転用し、言語化するということの難しさを感じました。
経験を書くだけならとても楽だなと笑。
今日はこれまでにします。
次は、偉そうにも部活動の意義的なものを語っていきたいと思います。
その前に、番外編。
「志村けんから学んだ事」
を書きたいと思います笑。
なんとなく形になってきたかな。笑
お読みいただきありがとうございました。