私の芸術運動122心の隙間から宇宙を眺める
絵画は言葉の無いコミュニケーション、それは沈黙のうちに行われる。
それは芸術というものに触れていなくたってこの世界で生きている間はいくらでもそういう時間を持つことができます
芸術は特別視される面があると思います
例えば才能とかそういったものに揶揄されます
しかし実際は芸術と自分との間で交わされる沈黙のコミュニケーションは芸術以外でも常日頃感じているものです。
自然との対話がそのいい例です
自然以外にもたわいも無い日常の中での一コマ、一人帰ったアパートでの時間に、がらんとした部屋で感じることもできます
窓から差し込む日差しや、風でそよぐカーテンや、シンクに溜まった食器なんかにも感じれます
それは私が特別だからですか?いいや違います、私は絵も売れないし才能もないと言われて生きてきましたから間違いないです。笑
ただ、私は沈黙の中にありとあらゆるものを感じます、心の隙間に無限の宇宙を感じます
日常の喧騒や仕事のあれこれ、人間関係のわだかまり、自分に対するコンプレックス、積み上がっていくのはこんなことばかりじゃ無いでしょうか?なんで?それは自分がそれに意識を集中させて心に溜めているからです。
執着といってもいいかもしれません
しかしふとそういうものが無くなると心が宙に浮いた様な気がして不安になったりします、そんな時、SNSで時間をとかしたり、飲みに行ったり、テレビをつけたりしてなんとか隙間を埋めようとします、しかし隙間は宇宙であり全てを無尽蔵に飲み込んでゆきます、行き着く先は虚無です。
人はなんとか抗っていますし誤魔化しています
しかし、実はその宇宙にこそ人生の実の部分があるわけです
それは自分が今まで積み上げてきたいろんなものを次は積み下ろしていく作業へとシフトさせたりします
脱サラして田舎でカフェを開いたり、地方移住を考えてみたり、リュックひとつで世界を練り歩いてみたり
自分が積み上げてきたものを改めて精査する、冷静に客観的に見て自分なりに決めていく、そんな時が来るものです。
私はそんな隙間の宇宙の中に芸術を見出します
人間は生きている限り虚無からも抜け出せますし、積み上げ続けることもできるし、積み下ろして身軽になることもできます
それらは沈黙のコミュニケーションによって沈黙のうちに行われます。
今の自分について考える、これはとても大切なことです
そうすれば目の前の人が意地が悪くても、機嫌が悪くても、なんか可哀想に感じてきたり、目の前の人が自分を削って他人によくしているのを見て、ただ享受するだけでなく何かその人の心の支えになる様なことを逆に心がけたりする様になるんじゃ無いかな?と思います。
十人十色、千差万別
みんながそれぞれの隙間から宇宙を眺めているわけです、その人の中の宇宙の状態は人によって違うでしょう
ここに才能なんてものは無いわけです
今の世界の基準で見て上か下かの差でしかありません
私は私の芸術運動を!!
芸術はそんな宇宙を具現化した様なものだと私は考えています。