私の芸術運動140心の延命治療

最近の私の中の静かな相剋に反応してか、身の回りで不穏な動きが静かに始まっている事に気づきました、人間は生きてさえいれば丸儲けと言いますが、生きながら地獄を彷徨うが如くの人も沢山います。

純粋な心に付け込んで、目の前に夢や希望と書かれた空っぽの宝箱をちらつかせ、これを開ける鍵が欲しいなら頑張らなきゃねと言います。


疑いの念を抱くとすかさず「こんなチャンスはそうそう無いよ?」と囁くわけです、そして励まし、鼓舞し、背中を押す。

その宝箱と鍵は自発的なものではなく、相手に用意されていたもの、心の牙を折るためのものに思えてなりません、私はこの社会にそういう仕組みをいくつも感じます

若さがまるで恥ずかしいことかの様に

決められた、やらされている業務の結果の良し悪しで評価され

定められた敷地内に放牧された羊がその中でカースト制度を形成する様なもので、そこに自らの自由を見出そうとする、次第に檻の存在を忘れてしまう。

その檻に入ってきた新人に先輩が言うでしょう、「若いねーまだまだ」「甘ったれるな」「俺も昔はそうだった」「社会はそんなに甘く無い」。

今までの長い?歴史で人類は発展してきました、世代を超えて数々の経験をし、学び、社会の構築をしてきました、しかし、今の社会はこの通りです、戦争はなくならず、自然は減り、日々殺人や虐待やいじめや窃盗や強姦や強盗や監禁や誘拐、他にも色んな問題が吹き出しています、最近私はこの世界が一つの限界を迎えようとしてるんじゃ無いかな?とぼんやり思うことがあります。

ある意味で当然の結果、自然の摂理、と言えます。

私は、毎日働いて絵を描いています、仕事場での人間関係も私が思う範囲では良好ですし、色々仕事も任せてもらい、できることが増え、楽しい環境といえます。

だけど、私は根本的には馴染めない気がしている、結局社員になることもなく、ただ、その月を生きるお金を得ている、現実を見て絵を描くのをやめ、社会人として会社に入社して、身を固めるのがこの世の常かもしれませんが、私は心の底からそれはできないとわかっているのです。

しかしそうしなければ生きていけないのが大多数の意見の総意でしょう。

将来の事や、老後の事、年金、保険、ローン

現実的に積み上げてなきゃならないことが死ぬまでにたくさんあるわけです、そこに不確定要素の強い夢というものを詰める隙間が、必要性がどれほど残っているでしょうか?

私には、まだまだ余裕があります、正社員でもありませんし、クレジットカードも持ってませんし、保険も無く、年金も払っていません、土地も家もありません、実績もありますありませんし、貯金もありませんし、車もありません、いずれ相続するものもありません、私にあるのは、その月の給料と、恋人と、友達と、絵だけです。

将来も絵を描いて、疲れたらお気に入りの椅子に座り、本を読んだり映画を見たり、だけどこれは遊んで暮らしているんじゃ無いです、そんなのは無理な事だと言われるかもしれませんが、みんなと同じ様な生活を送ればいずれみんなできる事じゃ無いです、心に抱いた情熱を無視せず、それに際する苦労や困難を超えてなお、描き続けていくという事を直向きにやる事だと私は思うのです、私はその途中です

私はそう言った意味で心の根っこの部分では社会に馴染めないと思うのです、これはネガティブな事じゃ無くて、シンプルで前向きな事だと思います、健康体な人が心の延命治療をして生きていくのでは無くて、今この瞬間を必死に生きて行く、これが社会的には可哀想な人という事になるのでしょう

私は確かに昔から潜在的な孤独を抱えて生きています、しかしそれは自分という一人の人間の形を自分なりにしっかり認識しようとしているからです、友達と飲んでいても、みんなと何かをしていても、薄まることのない自分、そんな自分を私は人に押し付ける事はせず、私はこういうふうにしてみたいと思う事をただするのです。

みんなに自分の思う幸せを歩んでもらいたいと思うのと同じ様に、自分にもそう思うのです。

私は、私であり、あなたは、あなた

私の芸術は檻では囲えない。


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