【備忘的記録】表現欲との付き合い方
諸問題は幾つか存在しているけども、自分が処理できることなんていうものは数に限りがあるので、1つずつ消化していくほか道ははないということはとうの昔に知っている話なのだ。
環境的要因によって、自身所有の環境からここへもろもろを書くことができず、気になること/書きたいことなんて山のようにある。まぁ、表現欲が満たされていないというわけである。
僕という人間は幼いころからへそ曲がりで、人の逆を行くように顕在的あるいは潜在的に選んで生きてきた記憶がある。そのなかでも顕著だなぁと思うのが「人に褒められないようにしよう」という活動だ。所謂“承認欲求を満たす”という行為なのだが、僕は自分のことが冗談じゃなく嫌いなので、「僕が嫌いな“ボク”を褒められる/認められる」は「自分の感性を否定されている」とねじれた構造を誘発してしまう。そんなことをされてしまうと、虫の居所が悪いどころか、自分の拠り所が迷子になってしまうので、僕がよく嘯く“自己嫌悪の波に攫われてしまう”という状態になってしまう。
さて、そんな拗れた信念、というかむしろ哲学に近いものを持っているにも関わらず、「“誰かに”“何かを”“伝えたい”」っていう衝動はどうにもこうにも抑えることができない。もちろん、上記の行動を行う場合には、自分が面白いとか楽しいとか愉快だとかを思って伝えていくのだけど、それが意図通り相手に伝わったとき、その瞬間は問題ないのだ。問題はその後だ。「あのとき、ああやって思い描いた通りになったけど、それって気を使ってくれたのではないか」「『アイツ、これでリアクションしてあげないと可哀相だな』とか思われてるんじゃないか」なんてことを考えてしまう。考えたところで、解なんて存在していないし、仮に存在していたところで、実際問題、僕自身にはなんの影響もない。至って不毛だ。
そういう不安や自己嫌悪並びに人間不信を抱えながらも、「“誰かに”“何かを”“伝えたい”」衝動は収まるところを知らずに動きつづける。相変わらず、めんどくさいなと思うけど、そういう構造で生きてるんだから仕方ない。
表現欲というのは、厄介な代物だなぁ。
ーそれにわかってるんだよ、傲慢だって。