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「私のほうが先に降りるから」と助手席に腰を下ろしたマーニー

運転技術には3段階あると思っている。

安全運転は最低限として第一にバック駐車が円滑にできること。第二に同乗者が気づかないほどにアクセル・ブレーキの使用がなめらかであること。そして第三にその同乗者との会話がスムーズであること。ひっくるめると“滑”という漢字に他ならない。それが走行方向、加速度、あるいは空気という次元で交差し、それがDrive(転がすこと)の楽しさなんだと思う。この楽しさは大学生の時、ある二人組のイタリア人から学んだ。

私が通っていた筑波大学は南北に4kmも伸びており、東京で言えば東京駅から秋葉原を超えて上野駅まで覆うほどで、授業の合間には自転車が必須、そんなところである。ところが1年間という期限付きの留学生に取っては自転車を買うのももったいなく、中には徒歩やバスを駆使して移動を試みる学生も少なくない。学内循環バスも運行を終えた夜、そんな留学生二人に呼び出された。「寮まで運んでほしい」、と。

彼女ら二人とは、チューターとして参加していたガイダンスの中でWi-Fiに繋げられずに困っていたところを手助けしたことで知り合った。なんでも彼女らの担当チューターがその日は用事があったらしく、しかし、大事なガイダンスの日に欠席するような人は信用できない、ということで連絡先を教えて欲しい、また困った時に助けて欲しい、とのことで連絡先も交換した。その困った時二度目が“アッシー”になれ、というわけである。

案の定終バスを逃した彼女らは酔っ払っていた。そんな時間まで学内にいた私も私でどうかとは思うが、後悔はよそに立腹していた。もう一度記すがまだ二度目の顔合わせである。それが「酔って終バスを逃した私らを送れ」である。文句は会う前に済ましてしまおうとブツブツ言いながら指定された場所に向かった。小雨の降る晩秋の夜である。

彼女らのうち一人は身長が高く、黒髪ボブで、スラリと整った鼻にのる黒縁メガネが光るカッコいい出で立ち。もう一人は身長は低めでウェーブのかかった明るい髪とソバカスが当時上映されていた「思い出のマーニー」のあの子を彷彿とさせた(映画は見ていない)。

寮へと向かう道は大学を中心に右回りと左回りがあり、どちらのルートで行くのかと聞かれたので最短であった左回りと答えた。すると、その子の寮のほうが先に着くことになるというので“マーニー”が助手席に乗り込んできた。

私は面を食らった。

車で通う者のサガで、もちろんこれが初めての“アッシー”ではない。イベント時の車出しも含め、それまでもそれなりに多くの人を乗せてきた。その経験から二人組を乗せるとなれば十中八九彼らは後部座席に陣を取るのが通例。ましてや、先に降りる人が助手席に座るなど、出くわしたこともなければ聞いたこともない。

どういうことかと尋ねた。彼女ら曰く、乗せてもらうのだからドライバーに感謝するのは当然で、その感謝の形が「Driverとの会話を楽しむ」ことらしく、しかも律儀に一対一で向き合うのが礼儀ということなのでこうなった、というわけらしい。

二度めのコンタクトで酔っ払いを送迎しろ』が礼儀を口にするのか、という邪念が正直コンマ何秒かよぎったが、私は心を打たれた。マーニーが降車した後は後部座席の彼女が助手席に移動した。酔にも関わらずその所作はとても自然でスムーズだった。染み付いた文化なのだろう。世界は狭いが、案外深い。

もう何年も前のことではあるが、「思い出のマーニー」は私の中の“思い出のマーニー”が上書きされそうなので今も見れないでいる。

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小さなテーブルに花束を/神長広樹
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