空白の感情の正体
前回記事はこう触れた。
中国研究短期留学にて、半ばで大きな興奮を味わった結果、留学を終える3日前だというのに特に何も感じることがない。経験はポジティブなものだから、成長の果の完全燃焼なのだろうか、と?だとしたら、なんだか悲しい。欲しかったのはこの空っぽ感とは違う、むしろ対局にある充実感だったのに。
おそらくこのこと自体は何ら珍しいことではない。たぶん過去にもあっただろうし、文化祭の後の退屈な日々も定年後の早死にも同じものだろう。熱中という快感を味わった副作用なのだ。
ただ、過去に味わったとしたら、あの時わたしはどうやって脱出したのだろう。新しい対象を発見した?ならば、これから一生新しい対象を探し続けていかなくてはならなくなる。それが人生というものであろうか。このようなある種の奴隷状態ではない、かつ、幸福な生き方はないのだろうか?
この後日本語サークルの子たちに中国式カラオケ、KTVにお願いして連れて行ってもらった。日本語サークルとは毎週水曜日の放課後に行われるもので、全部で5週参加させていただいた。そのうち3回は講師として参加した。(「なぜ日本語は敬語になるほど長くなるのか?」、「“こんにちは”と後には“さようなら”が続くって知ってた?」、「映画“君の名は”の君とは誰のことか?」など。内容は、またの機会にまとめたい)
故郷の生の歌を久しぶりに聞いた。
故郷の歌を何年かぶりに誰かと歌った。
しかも、その誰かは日本人ではない。日本人以上に日本が好きで、最新の曲(KTVはアイドル曲、アニソン、ボカロ曲“しか”ない)ならぼくよりも遥かに知っていて、おまけに、早口のボカロ曲まで歌いこなすツワモノたち。
ぼくが住むエストニアにはカラオケはない。一応“KARAOKE”と呼ばれるパブのステージで公然と歌うものならあるが、そんな勇気はないし、そんなカラオケはぼくの辞書にない。
だから、ずっとカラオケに憧れていた。
それが異国の地で叶った。
この後彼らから色紙を頂いた。
ちょっぴり不自然な日本語だったけど、
だからこそ彼らの思いがダイレクトで伝わってきた。
その時、感情が湧き出た。
空白だった心に充ち満ちとうるおいが戻った。
探していたそれだった。
それは心から溢れ、頬伝っていた。
わかった。
空白の感情の正体。
それは成長の果に失ったものでも何でもなかった。
ただ、自分本位の生き方に嫌気が差していたのだ。
ぼくが教えた上記の授業内容は決して優しいものではない。どれも神道と密接な関係があり、おそらく説明できる日本人も多くはない。時間を掛け準備した。
そしたら、感謝をされた。
ぼくも感謝をした。
わがまま言って、木曜日の放課後にKTVに付き合ってもらった。夕飯も一緒に食べたら、帰宅は0時を回ってしまった。そこまで全員に付き合ってもらった。
感謝したのに、また感謝が返ってきた。このとき泣いた。
自分本位の生き方は悪いことではない。むしろ、多くの場面で推奨されるだろう。自分の人生、自分で舵を切ってこそやりがいも成長も訪れる。
しかし、その成長はなんのためであろうか。
その成長の先に望むものは支配ではなく、奉仕でありたい。
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